1991年09月01日

平成の金色夜叉物語?

細見 卓

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明治の小説であり読む人も少なくなったとは思うが、尾崎紅葉の「金色夜叉」は日本の資本主義勃興期に見られた拝金主義に対する痛烈なる風刺の物語であり、広く国民に読まれたものであった。

資本主義が投機的になり、手段を選ばない金儲けに走ることは日本だけの事柄ではなく、ゾンバルトの「近代資本主義」にも記述されているところであり、このような節度を失した資本主義の醜い面は度々歴史の上に現れている。世界が如何に投機好きであるかは、ガルブレイスの「バブルの物語」が多くの事例をあげている。このような資本主義の行き過ぎについては「国富論」を書いたアダム・スミスも夙に気づいており、スミスはその中で人間の道徳意識の重要性を繰り返し強調し、節度ある人間の自由なる経済活動によってこそ市場における“見えざる手”の作用が可能になると述べている。

こうした経済学者達の言うところの人間行動における禁欲・勤勉の重要性については、昔から世界の三大宗教であるキリスト教・仏教・イスラム教のいずれにおいても、富を貪ることの害を繰り返し説いているところである。更にアジアの宗教ともいえる懦教においては、とりわけ富を貪ることへの不当さを強調して止まないところであり、その教えである勤勉と規律がアジア地域の今日の経済興隆の推進力であるとさえいわれている。

勤勉と節欲によって将来に備え、貯えた資本で経済の発展を図ることが資本主義の根本理念であり、そうでない投機的な富の獲得というものが如何に経済全体を毒するかはヒルファーディングの「金融資本論」を読むまでもないことである。現在の経済界の幹部の多くはマルクス経済学の洗礼を受けており、このヒルファーディングの学説を理解しなかった人は少ない筈である。にもかかわらず、金の誘惑・投機の誘惑というものは理性による抑制を超えるものがあると見えて、投機が投機を呼ぶバブル経済の蔓延から日本の経済構造の欠陥が極端にまで押し進められていたことが、その崩壊によって白日のもとに晒されることとなった。

譬えて言えば、資本市場という貯水池からポンプで水を吸い上げながら、又、元の貯水池にその水を戻すようなことをしていると水は無限にある、つまり金融資金は限り無く拡大して行く如く見えるらしい。このようにして土地の値段、株の値段、更には絵画の値段に至るまで本来的価値とは無関係なほど膨張してしまったのである。しかし、世の中に悠久運動がない例えの如く、このようなバブルの機構もついには崩壊せざるを得ないのは先のガルブレイスの著書に幾つかの例示がなされているとおりである。

投機者が投機の行き過ぎで自らが傷を負うことは止むを得ないとしても、このようなパブルの崩壊の時には、いわばパブルの持続を錯覚して後から参画した多くの普通の人々を最も酷く傷つけることはいつものことながら悲惨なことである。

最初にこのような投機資金を貸し出した金融機関が悪いのか、そのような資金を更に膨らませた証券会社その他の機関がより悪いのか、冷静な検討によって今後その責任も明らかになるであろう。同時にこのようなバブルの拡大を放置してきた政府当局の遅滞は厳しく責められるべきであろうと思われるが、犯人探しに血道をよげることよりも、今こそ拝金主義に惑わされて額に汗することなく巨富築こうとした人々の間違った考え方によるところが大きかったことを深刻に反省すべきではなかろうか。

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