2022年03月17日

ウクライナ危機と対ロ制裁:現時点で考慮すべき三つの視点

ニッセイ基礎研究所 特別招聘顧問 政策研究大学院大学 特別教授 西村 淸彦

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ロシアのウクライナ侵攻に対して、米国・欧州を軸にロシアへの制裁が広がっている。事態は極めて流動的だが、対ロ制裁の影響について暫定的な見通しを示したい。金融と実体経済の両面で考える必要がある。

金融面では、ロシアへの金融制裁がロシア一国の通貨危機を超えて、国際的な金融不安の連鎖を起こす可能性は低い。国によって個別の金融機関に大きな影響がある程度である。だが事態の進展をみると、今まで全く考慮されなかったテールリスクが生じるかもしれない。

国際的な金融危機には発展しないとされる理由は、15年前の世界金融危機のときの状況と現在を比べるとよくわかる。15年前には、世界金融市場のごく一部でしかなかった米国のサブプライム証券市場の問題が、一気に世界金融危機に発展した。金融機関の相互の支払い能力に対する疑心暗鬼が、相乗作用を起こしながら一挙に市場に広がり、2007年のパリバ・ショック、さらには08年の米証券大手リーマン・ブラザーズの経営破綻と危機拡大をもたらした。

その後、レポ(短期の資金貸借)市場や派生証券市場の制度改革、国際金融規制改革が進んだ。米連邦準備理事会(FRB)と各国中央銀行のドルスワップ網が構築され有効に機能している。ロシアは世界金融市場のごく一部にすぎない。多くの国では、金融機関の対ロシア債務は1%に満たず1、金融市場の安定性に影響を与えるとは考え難い。ただロシアはユーロドルの派生証券市場では相当な額(数千億ドル規模)の資金供給者であると言われているので2、その資産が凍結され、資金供給がストップすると欧州金融機関の一部には、大きな影響がでるが、局地的な問題に止まると考えられる。

しかし戦争が欧州、さらにはアジアで拡大していくことはないのか、不確実性が高まっている3。ロシア軍の原子力発電所への攻撃や戦術核使用の可能性示唆などは今まで全く考慮されていなかった。また、ロシアのサイバー攻撃能力の高さを考えると、攻撃と報復の連鎖の中で偶発的に経済社会インフラへの攻撃などの想定外の事態は否定できない。実体経済や金融機関への不安が同時多発的に一挙に広がり、国際的な金融不安をもたらしかねない。

実体経済への影響を考える時には、対ロ制裁が現在の枠組みを激変させる兆しに注意せねばならない。特に2つの視点が重要だ。

一つはすべてに超越する正しい目標とされてきた地球温暖化対策と今般の対ロ制裁との齟齬(そご)だ。

今回の出来事は、気候変動問題で欧州のロシア依存が強まる中で起きた。2月に欧州連合(EU)の欧州委員会は天然ガスと原子力を「移行期の活動」として是認する規則案を示した。

2022年1月1日、ドイツは最後の6基の原子力発電所のうち3基を停止させ、残り3基も年末までに閉鎖する方針だ。ドイツにとって、今後は再生可能エネルギー以外で頼れるのは事実上ロシアの天然ガスだけだ。この状況でロシアからのパイプラインでの天然ガス輸入を止めると、他地域からの液化天然ガス(LNG)の輸入で代替しなければならなくなる。しかしその価格が急騰している4

消費地である欧州が制裁を続ける場合、欧州はその費用を負担しなければならない。この点は同じく消費地の日本も例外ではない。

米バイデン政権は発足時から、シェール油田掘削の制限やパイプラインの停止など、環境エネルギーに関する公約を実現するために動き出していた。だが欧州の「量」の確保を支援するには、公約として掲げた環境エネルギー対策の見直しを迫られるかもしれない。

ロシアのウクライナ侵攻が現実となり、米国・欧州を中心とした制裁が発表され、更にロシアからの原油禁輸の可能性が報道されると、北海ブレント石油先物価格は急激な上昇を来した5。一方、エネルギー安全保障の観点から温暖化政策が緩やかになるとの予想が生まれ、それに賭ける投資家も出てきて、欧州の排出権先物価格は急落した6。その後米国主導のロシアの原油禁輸措置が広がりを見せないと原油価格は反落、またバイデン政権が米国での増産に言及せず量の確保を他に求めていることが明らかになると排出権価格も反騰を見せた。このように揺り戻しも見られるが、今後ロシアが対抗措置をとり、制裁コストの増大が明らかになるにつれて、温暖化対策は修正を迫られる可能性は否定できない。先行きは著しく不透明だ。

もう一つの視点は経済活動への影響だ。対ロ制裁は各地域の成長率とインフレ率にどう影響するのか。

コロナ禍以前には、米国と欧州で成長率鈍化とインフレ率低下がみられ、日本の状況に近づいていた。だがコロナ禍対応の前例をみない財政金融政策に支えられた経済活動の回復過程では、「米国 > 欧州 > 日本」の順序で顕著な差がみられ、これがインフレ率の差につながった。

米国では、21年春に実質GDPがコロナ禍前の水準を回復するとともに、成長率も力強く回復、インフレ率は連邦準備制度理事会(FRB)の予想を超えて高進し続けた。このため人々の、将来のインフレに対する見通し(インフレ期待)がFRBのインフレ目標を大きく超えて上昇し、今後長い期間高インフレが持続し加速する可能性が高まった。これでは物価の安定が重要な役割であるFRBの信認を揺るがし兼ねないとの批判が高まり、FRBも量的金融緩和の縮小から政策金利の引き上げへ動くが、そのペースは依然として緩やかだ。

欧州でも経済回復がみられ、総体としてみるならば、21年末には実質GDPはほぼコロナ禍前の水準を達成している。インフレ率も21年秋以降顕著に上昇し、欧州中央銀行(ECB)のインフレ目標を大きく超えている。米国と同様に量的緩和の縮小に向かい、政策金利の引き上げを模索していた。

これに対し、日本では総需要の回復は大きく遅れコロナ禍前に戻っておらず、更には19年消費税増税前の水準から大きく落ち込み、15年のレベルに止まっている7。インフレ率も日銀のインフレ目標を大きく下回る状況だ。

対ロ制裁の影響は米欧日の差をさらに拡大する可能性が高い。エネルギー消費国では、資源価格高騰は輸入に依存する財・サービスの急激な価格上昇を招き、インフレを加速しながら、交易条件の悪化からの実質的な所得減をもたらす。物価上昇と景気後退が同時に進む「スタグフレーション」型の供給ショックだ。ロシアやウクライナの希少資源供給の途絶によるサプライチェーン(供給網)の混乱は、自動車や半導体などの供給制約を一層高め、ボトルネック型インフレを悪化させる。

政策金利引き上げの効果が表れるには時間がかかり、その見通しにも不確実性が伴う。量的緩和の縮小についてはさらに不確実性が高い。そのため米国では、現在の労働供給市場の逼迫(失業率の低下)が示すデマンドプル(需要主導)型のインフレにボトルネック型インフレが加わる形で高インフレ率がさらに長く続く可能性が高い。これに実質的な所得低下をもたらすスタグフレーション型インフレも付加される。従って、政策金利の引き上げが効果を上げ、インフレ高進が止まったときには、景気後退が始まっているという望ましくない状況に陥っている可能性がある。米国以外の多くの国でもスタグフレーション型インフレが起きるとするとその波及効果から、米国の景気後退が想定以上に早く現実になるかもしれない。

ただ、米国はエネルギー生産地でもある。バイデン政権のこれまでのエネルギー政策が欧州支援のために緩和されれば、短期的にはスタグフレーションの影響を緩め、中期的には潜在成長率を高める効果がある。

もともとロシアとの経済関係が深い欧州では、対ロ制裁のコストは米国に比べ大きい。米国を後追いする形で労働市場が回復しデマンドプル型のインフレが顕在化しはじめているが、これに対ロ制裁のコスト負担からのスタグフレーション型のインフレが付加されていく可能性が高い。

日本のエネルギー自給率は欧州よりも低く、グローバルサプライチェーンに大きく依存している。そのため対ロ制裁に伴う資源価格高騰とサプライチェーン問題の影響は大きくなる可能性が高い。コロナ禍での労働市場の悪化は米欧と比べて穏やかであったが、回復も緩慢であり、目立った賃金上昇も見られない中で、対ロ制裁のもたらす負の供給ショックに向き合わなければならない。今後、輸入資源に直接・間接的に依存する商品・サービスのインフレ傾向が高まり、賃金上昇が見られない中、実質所得低下に伴う需要減退がもたらすデフレ傾向(インフレ減速傾向)は大きくなるが、それをはるかに超えて、インフレ率(生鮮食品を除く総合)は相当高くなると考えるのが自然だろう。
日本の場合、インフレ圧力が高まる局面で、長期のインフレ期待、換言すれば家計の値上げに対する許容度が上昇するか否かが重要な視点となる。加えてインフレ期待が、賃金の上昇をもたらしていくかも注意しなければならない。対ロ制裁から生じる費用増を受容する心理が、家計そして企業の双方に根付くかどうかが、今後の日本の金融政策を左右することになる。
 
*本稿は日本経済新聞「経済教室(2022年3月16日)」を加筆・修正の上、転載したものである

1 2021年9月、BIS。
2 3月4日、Financial Times。
3 プーチン大統領は、ロシアへの制裁をロシアへの宣戦布告のようなものだとほのめかした。3月5日、BBC News Japan (https://www.bbc.com/japanese/60635832)
4 ロシアのウクライナ侵攻(2月24日)以前は80~100 ユーロ/メガワットアワーだった欧州天然ガス先物価格(指標のオランダTTF)は3月に入って150~200 ユーロに上昇、3月7日には1日では一時79%上昇して345ユーロをつけた。3月7日 Bloomberg。
5 北海ブレント原油先物価格は昨年末から上昇し、1月4日の80ドル/バレルから約2ヶ月をかけて2月24日には100寸前まで20ドル近く上昇した。これに対しロシアのウクライナ侵攻(2月24日)のわずか2週間で23ドル以上上昇し3月8日には123ドルをつけた。3月8日 Investing.com。
6 欧州排出権先物価格は昨年来高値圏(80~95ユーロ/トン)で推移し、2月24日には94.74の水準であった。これに対しロシアのウクライナ侵攻以降は急落し3月7日には58.36をつけた。3月8日 Investing.com。
7 ニッセイ基礎研推計の月次GDP推移による。
 
 

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