コラム
2010年03月31日

高齢者福祉とは何か

遅澤 秀一

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民主主義とは、100人のうち51人の賛同をもって残り49人から資産・所得を奪うことも可能となる制度である。これを所得再配分とか福祉とか呼んでいる。一貫して小さな政府を主張している米国の政治家ロン・ポールは、その著書’The Revolution:A Manifesto’の中で、良い目的に使うからといって隣の家に押し入り財産を奪うのは犯罪であるが、政府がやれば合法化されると述べている。しかしながら、このような略奪行為が正当化(多数決ではなく正義の観点で)されるとするならば、富める者から貧しき者へと富の移転が行われる場合に限られるであろう。そのように考えれば、貧しい若者から豊かな老人に金が流れる日本のシステムに一片の正義もない。

そもそも福祉とは、貧しい人や困っている人に救いの手を差し延べることであり、年齢は関係ない。それにもかかわらず、高齢者福祉が行われるのは、二つの理由による。第一は、経済が成長し社会が豊かになっていく場合、高齢者は取り残されて相対的弱者になりがちだからである。第二は、現実問題として、老いによる精神的・肉体的衰えに伴い、健康においても経済的にも生活に困難を覚える人が増えるからである。

しかし、前者に関してはもはや当てはまらない。長く続くデフレ社会は、高齢者と若者の経済的立場を逆転させた。デフレ社会の勝者は、失業リスクのない年金生活者と公務員である。もはや、高齢者を経済的弱者の世代として扱うのは不適切である。また、第二の理由にしても、個人によって事情が異なり、十把一絡げに扱うべきではないだろう。

ただし、念のため申し添えておくと、高齢者を福祉の対象からはずせと言っているわけではない。その理由が経済的困窮や健康上のサポートの必要性であるべきで、単に高齢というだけでは税金の無駄使いである。たとえば、市内有数の資産家に市バスの無料パスを配るのは福祉ではない。長時間働いてもワーキング・プアの水準から抜け出せない若者が何とか工面して納めた健康保険料が、資産も所得も十分にある高齢者の長年の不摂生による生活習慣病の医療費支払いに当てられるのも、福祉ではない。富める者の貧しい者に対する略奪である。息子に年間億単位の支援をしている金持ちの老人も、病院に行けば名もなき貧しい若者から医療費支援を自動的に受けることになるのが、日本の現状である。

いま必要なのは、福祉の原点に戻ることであり、誰が本当の弱者なのかを見極めることだ。日本の問題点は、自称・弱者の既得権を剥ぎ取ることが出来ず、本当に救いの手が必要な声なき人が放置されていることにある。しかも、それが民主主義の名のもとに行われていることである。世代間の助け合いを各家庭で行うのは自由だが、賦課方式の福祉を国家が行うのであれば財源や制度の継続性以前に正当性こそ問われるべきである。社会保障学者は、世代間の助け合いが大事で世代間の対立を煽るべきでないと主張する。そうであれば、裕福な高齢者が貧しい若者に救いの手を差し延べるべきであろう。自分の子や孫を支援する一方で、後の世代の不特定多数から略奪を働くことを世代間の相互扶助と呼ぶべきではない。

(2010年03月31日「研究員の眼」)

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遅澤 秀一

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