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2025年08月06日

インフレは生活を豊かにするのか?-求められるインフレなき賃金上昇

神戸大学経済経営研究所 リサーチフェロー ニッセイ基礎研究所 客員研究員 高橋 亘

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4――賃金上昇、インフレ以外の途

1|賃金上昇:マクロの原則とミクロの原則
まず賃金上昇の原資は付加価値の増加であってインフレと直接の関係がないことをマクロ経済の基本であるGDPから確認しておこう(マクロの原則)。

GDPとは付加価値の合計であり、付加価値額とは販売額から人件費などを除くコスト(原材料などの中間投入額)を引いたものである。この付加価値から賃金や株主・経営者などの報酬(雇用者所得、営業余剰など)が支払われ所得となる(付加価値生産額=所得)。これは名目ベースでも実質ベースでも同じであり、実質賃金の上昇のためには実質ベースでの付加価値の増加が必要であり、インフレは関係ない。

また従業員個々人の賃金決定の原則(ミクロの原則)は、企業の業績と個々人の業績により決定されるものである。無論生活費の補償という点でインフレにスライドして賃上げが行われる必要はあるが、それはインフレにより目減りを補うものにすぎず、それではインフレを上回る賃上げ(実質賃金の上昇)は期待できない。

マクロでみてもミクロでみてもインフレは賃上げにとってインフレは必須ではない。
2|生産性の上昇:経営による工夫が必要
生産性の上昇は生産単位当たりの付加価値額を増加させ、GDPではほぼ生産者一人当たりのGDPの増加として表われる。いま求められているのは、政府の提唱するようにコストカット経営を脱して、製品の高付加価値化など付加価値を増加させる経営への転換である。高付加価値化というと新たな発明など大げさに考えがちだが、消費者のニーズに沿った新製品の展開などの方がより現実的であろう。例えば、近年健康志向の高まりから、健康飲料でも乳酸菌などに工夫した従来品よりは高価なものが売れている。これはおそらく利益率(付加価値)も高いだろうが、値上げを消費者が受け入れる高付加価値化の事例である4。高付加価値化は経営の工夫によって実現するものであり、経営の最重要の課題でもある。

またデジタル化(DX)は人件費の削減などを伴わない生産性の上昇の方策として期待されるが、現状のデジタル化はペーパレスとキャッシュレスに留まっており新たな付加価値の創出となっていないとの批判もある。企業経営者は、自らのデジタル化が本当にデジタル化なのか見直す必要もあろう。

さらに生産性の上昇というと、勤労者には、これ以上働けというのか、ワークライフ・バランスと矛盾しないか、などの意見も出よう。河野(2025)はわが国の一人当たりのGDPの上昇は他の先進国に比べてそん色のないことを示している。賃金上昇のためには、今後とも一段の生産性の上昇は望ましいが、わが国でそん色のない一人当たりのGDP上昇があったことは、実は賃金低迷が、他の要因、とりわけ企業経営にも問題があったことを示唆しているように思える5

なお、高橋(2023)では、経済の企業間に生産性の格差があるとき、インフレに合わせた賃上げが行われると、インフレが不安定化し上昇することを示した。

また、現状の人手不足への対応は、企業に労働代替投資による生産性と賃金上昇をもたらす方向に働くが、これもインフレとは関係がない賃金上昇である。
 
4 インフレとは同じ効用(満足)を得るためのコストの上昇である。既存商品の値上げはインフレだが、ここで指摘した高付加価値品の販売は、単価は上昇するものの満足度も上昇するため、必ずしもすべてがインフレとはならない。高付加価品は販売単価を上昇させるが、それはインフレではない、逆にインフレによる販売単価の上昇は、高付加価値化ではないことには注意が必要である。
5 岩田(2024)は労働生産性の上昇にも拘わらず実質賃金が低迷した背景には、円安や海外エネルギー・商品価格の上昇に伴う交易条件の悪化が背景であるという重要な指摘を行っている。これに従えば、インフレ待望論者が望む円安が実質賃金の低下要因となっていることになる。
3|賃金上昇とコーポレート・ガバナンス改革:賃上げは経営の決断
アベノミクスの下で推進されたコーポレート・ガバナンス改革は、社外役員の登用による経営の透明化など大きな成果をあげてきた。2014年に経済産業省から発表された「伊藤レポート」はその指針となり、その続編とともに今日までも改革をリードしてきている。しかし、その大きな問題意識は、国際的に見劣りのするROE(資本収益率)の改善であった。だが、ROEはマクロの経済状況に左右されることも大きいうえ個々の企業でその改善を図ろうとすると、レポートの本意ではないにしても、人件費などを含むコストカットが優先されることになる。わが国の雇用は、バブル崩壊後雇用が確保されることを優先して賃上げを後回しにしてきたとされる。しかし少なくともここ数年、企業が史上最高益を更新する下でも、十分な賃上げが実施されてこなかったことには、株価やROE重視の悪影響があったのではないかと推測される。株価の源になる企業利益についても、米国とは異なり英国の経営学者では、利益は手段にすぎない、また利益は社会環境も配慮した公正なものであることが重要との見解も出されてきている。従業員やその他多様なステークホルダーに貢献してこそ、そしてその他の社会的責任を果たしてこその利益という考えである。

わが国でも古くから「三方よし」などの社訓がある。賃金は、市場原理がストレートに当てはまらない社会政治的なものであり、企業の重要な経営判断である。賃上げの実現のためには、賃上げが経営上の優先事項であるとの認識がなされねばならない6

またこの点、経営サイドと同時に従業員組合サイドでも賃上げを適切なタイミングから要求してきたかについても疑問なしとしない。英国などで高い賃上げが実現してきた背景には労働組合の影響がある。わが国企業は労使協調で1990年代以降の経済危機を乗り越えた側面があるが、経営者報酬の大幅な引上げが報じられる7中で、従業員の賃上げについて組合から経営に十分な牽制を働かせてきたのかの検討も必要であろう。

コーポレート・ガバナンス改革は、これまでコンプライアンス重視に偏重する一方、最近では「パーパス経営」など次々と新機軸を打ち出すことで改善を図ろうとしているようにみえる。しかしガバナンスで本当に重要なのは、こうした新機軸よりは経営陣と社外取締役、監査役、従業員組合などの健全な相互牽制の確立である。牽制が働かないのではガバナンスの意義はない。また企業は社会の公器でもあり、コンプライアンスや自社に限ったミクロの視点に偏重することなく、社会から求められる使命としてマクロの視点も必要である。これを踏まえていれば、経営判断としてより早くから従業員の賃金上昇を行えたのではないかと思う。
 
6 渡辺(2025)は労働生産性の伸びた企業でもそれを賃金に反映させない賃金マークダウンが実質為替レートの円安を生み出したとの興味深い指摘を行っている。
7 2023年8月16日の日経新聞は、従業員の賃上げ率がまだ低位に留まるなかで、主要76社の経営トップの22年度の報酬が、報酬のなかで業績報酬の割合も増えたこともあって、前年度比33%増とデータのある09年度以降最も高い伸びを示したと報じている。
4エッセンシャルワーカーの賃上げの優先8:政府の率先が重要
英国では、スターマー労働党政権発足直後に、教師・医療関係者など公的セクターのエッセンシャルワーカーに対して、インフレによる生計費危機(cost of living crisis)対策として前年比2割増加といった大幅な賃上げを実施している。英国はわが国ほどではないが、財政事情は厳しいが、インフレが格差の拡大など社会的な問題を深刻化させる中で財政政策の優先順序を見直した結果と言える。

インフレは社会の最も弱い部分に悪影響を与える。エッセンシャルワーカーについては、その働き無しでは我々の生活が成り立たないのは明らかなのに、最近でも介護関係の処遇の悪化などが行われてしまっている。インフレはさらに物品費の上昇などによっても社会のセーフティネットの運営に悪影響を与えている。これらの多くは公的規制や公的セクターに属しており、英国の例が示すように、政府が財政支出の優先順位を変えることで、給与等待遇の改善に率先して取り組むことができる。民間セクターに賃上げを求めるのに、公的セクターでそれを実施しないのは明らかに矛盾しており、賃金上昇の模範を示すという意味でもエッセンシャルワーカーなどの待遇改善を行うべきであろう。
 
8 わが国のエッセンシャルワーカーを巡る問題などは田中(2023)など参照。

5――結びに代えて:ケインズの観察

5――結びに代えて:ケインズの観察

“レーニンはこう語ったと伝えられている。資本主義を破壊する最善の方法は、通貨を堕落させることだと。政府はインフレを継続することで、密かに、気づかれることなく、国民の富のうち、かなりの部分を吸収できる。この方法を使えば、国民の富を吸収できるだけでなく、恣意的に没収できる。その過程で、多くの国民は貧しくなるが、一部の国民は逆に豊かになる。このように富が恣意的に再分配されるために、既存の富の分配の安全性が脅かされるうえ、既存の富の分配の公平さが揺らぐことになる。”

これはケインズの「説得論集」からの引用である。最初の2文はあまりにも有名だが、次文以下にあるようにわが国でもインフレは国民を犠牲にするかたちで、税収の増加をもたらし、また低所得者を中心に生活苦を招き、一方富裕者を富ませ格差を拡大させている。このようにインフレは通常、経済のみならず社会を悪化させる。だがわが国では、デフレ脱却を旗頭にインフレが待望され、最近では「物価と賃金の好循環」が唱えられ、インフレは経済を活性化するとの議論がなされている。

それらの議論では、現在の3%程度のインフレ(消費者物価前年比)についても、「大したことはない」といった発言がなされているが、それでは、現状の「大したことはない」インフレを政府自身が「物価高」や「物価高騰」として「物価高対策」を実施していることの説明がつかない。さらに、インフレの先行きについても「早晩ピークアウトする」としてきたが、円安是正が続く中でも毎月のように生活必需品の値上げが波状的に行われることの説明もつかない。そして、賃金についても大幅な賃上げが進み、特に初任給の上昇がみられ、全体でもやがてインフレ率と逆転して実質賃金も上昇すると言われながらも、長い間実質賃金の下落が続いている。これまでも経済の改善が一部から始まりやがて全体に広まるという「トリクルダウン論」が屡々唱えられてきたが、その失敗が再現しないことを願いたい状況となっている。

賃金は企業業績と勤労者の業績に応じてなされるべきなのに、なぜインフレが優先されるのか。トリクルダウンを待つ必要はないのではないか。賃金決定は多分に社会的であり、エッセンシャルワーカーなど、社会が必要とされる勤労者に率先して賃上げをすべきではないか。本稿は、そうした問題意識を持ち論じたものである。

参考文献

岩田一政 「エコノミスト360°視点『量的引き締めと金利政策の関係』」日本経済新聞8月15日朝刊 2024
ケインズ J.M. 「インフレーション」山岡洋一訳『ケインズ説得論集』日経ビジネス文庫 日経BP 日本経済出版本部 2021
河野龍太郎 『日本経済の死角』ちくま新書 筑摩書房 2025
斉藤太郎 「生産性向上が先か、賃上げが先かー賃上げを起点に縮小均衡から拡大路線への転換を」ニッセイ基礎研レポート 2023-02-28
髙橋亘 「インフレは賃金上昇に必要か?」ニッセイ基礎研レポート2022-09-14
髙橋亘 「やさしい経済学『インフレを再考する(1)~(9)』日本経済新聞11月3日~16日朝刊 2022
髙橋亘 「実質賃金上昇の罠 ―生産性格差のもとでインフレによって賃金を決定することの問題―」ニッセイ基礎研レポート2023-11-24
髙橋亘 「好循環論への疑問 ~デフレマインドの解消、賃金上昇、フィリップス曲線を巡って~」ニッセイ基礎研レポート2024-03-11
田中洋子編著 『エッセンシャルワーカー ―社会に不可欠な仕事なのに、なぜ安く使われるのか』旬報社 2023
中尾武彦「INTERVIEW トランプ政権の『ドル安志向』一国主義が揺るがす基軸の将来」『週刊エコノミスト』7月15日号 2025
原田泰 「検証 異次元緩和」ちくま新書 筑摩書房 2025
渡辺努 『物価とは何か』講談社 2022
渡辺努 『物価を考える』日本経済新聞出版 2024
渡辺努 「経済教室『価格の復権、生産性や為替レートに普及も』」日本経済新聞社2025年2月26日朝刊 2025

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(2025年08月06日「基礎研レポート」)

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