2019年09月06日

英国の合意なき離脱:対策と影響-「終わりの始まり」ですらない

経済研究部 常務理事 伊藤 さゆり

文字サイズ

1|英国の対策
英国政府は、「合意なき離脱」による激変を回避すべく、継続性を重視した、一方的、且つ、暫定的な対策を準備してきた。

メイ前政権では、「合意なき離脱」対策のため42億ポンド(5460億円)を投じたが、ジョンソン政権ではゴーブ・ランカスター公領相が担当大臣となり、21億ポンド(2730億円)の追加予算を確保し、国境管理の人員増強や港湾設備の増強、医薬品の在庫増強や広報活動など「合意なき離脱」対策を加速している。さらに。ジャビド財務相は、9月4日に行った2020年度の「歳出レビュー」で20億ポンド(2600億円)を積み増す方針を明らかにしている。

(1)関税・通関手続き
合意なき離脱の場合、関税については、19年3月に公表された「暫定的関税枠組み」が最長1年間適用される6。価値ベースで87%の財の関税はゼロ、食肉と一部乳製品、完成車などのセンシティブ産業を有税とする。

「暫定的関税枠組み」は、EUと第3国とのFTAを置き換え、離脱後速やかに発効する「貿易継続性協定」を締結している国と、最貧国を対象とする無関税の市場アクセスなど特恵的なアクセスを認めている約70の途上国は対象外となる。EUは「暫定的関税枠組み」の税率の適用対象となる。

英国政府は、「合意なき離脱」対応として「貿易継続性協定」の締結を急いでいるが、8月22日時点で発効可能とされているのはスイス、韓国など13カ国・地域、カナダ、トルコなど25カ国・地域は協議中とされるが7、カナダは継続を拒否しているとされる。EUと関税同盟協定を締結するトルコは、英国にEUと同条件を認めることに慎重な立場をとっている。

日本は、EUとのEPAが19年2月に発効済みだが、英国との「貿易継続性協定」の協議に慎重な立場をとっており、合意なき離脱の場合は、「暫定的関税枠組み」の対象となる。
 
6 Temporary tariff regime for no deal Brexit published(https://www.gov.uk/government/news/temporary-tariff-regime-for-no-deal-brexit-published
7 UK trade agreements with non-EU countries in a no-deal Brexit(https://www.gov.uk/guidance/uk-trade-agreements-with-non-eu-countries-in-a-no-deal-brexit
(2)ヒトの移動と市民の権利
EU市民の権利は、英国独自の移行期間として20年末までの申請を認める。地位と権利の根拠が国際法の「離脱協定」ではなく英国法に、移行期間後8年間のEU法による保証とEU司法裁判所の管轄権などが英国法による制限となり、厳格化する可能性がある。

(3)金融サービス
金融サービスにおいても継続性を重視する対策を採る。単一市場で認可を受けた金融機関の支店には、暫定的認可制度(TPR)によって業務の継続を認め、業務を長期継続する場合には、免許の取得を求める。EUの資産運用会社には、離脱後の業務継続を認め、既存のファンドの営業を認める。格付け会社、中央清算機関、デポジタリーなどにも暫定的な枠組みを用意する。

(4)アイルランド国境管理
アイルランド国境では、アイルランドから北アイルランドに入る物品について、新たな検査や審査は行わず、関税も適用しない「特例措置」をとる。

特例措置によって、英国政府が重視するアイルランド国境の開放と英国の一体性を維持しつつ、EUの単一市場、関税同盟からも離脱できる。しかし、一時的にせよ、1) 加盟国が他の加盟国の同種の産品に最恵国待遇を供与することを定めているGATT第1条、2) 最恵国待遇の原則に違反の例外として地域統合の原則を定めるGATT第24条というWTOルールに違反した状態となるため、「特例措置」は持続可能ではない。
2|EUの「合意なき離脱」対策
EUの対策は、EUとEU市民のための一方的なもので、期間も分野も限定している。必要に応じて加盟国が個別に特別措置を講じているため、国毎のばらつきもある8

EUの対策の対象は、金融サービス、航空輸送、道路輸送、鉄道、学生の流動化の促進のための「エラスムス(ERAMUS)計画」など混乱の阻止に必要な最低限の範囲に絞り込んでいる。

EUが対策を限定するのは、単一市場の一体性重視のため、離脱する国に加盟国と同じベネフィットを与えないことを原則としていることがあるが、英国の「合意あり離脱」と英国からEU圏内へのビジネスの移管を促す狙いもあると思われる。

EUは17年12月に「合意なき離脱」の対策に着手し、当初の離脱期限の前の19年3月25日に完了を宣言した9

さらに9月4日には、延期後の新たな期限である10月31日が迫ったことを受けて、EU市民と企業に注意喚起する通算6本目のコミュニケーション(政策文書)を公表した10。英国と貿易を行っている事業者が最終的な準備を進めるためのチェック・リスト、3月29日の離脱期限に合わせて設定された航空輸送、道路輸送などの暫定措置の期間について、技術的な調整を提案した11。また、「合意なき離脱」の影響を受ける企業や労働者がEUの構造基金を利用できるよう必要に応じて法改正も行う方針も提案した。
 
8 EUの対策と加盟国の対策を横断的に概観したものとしてはMiller(2019)のほか、Institute for Government(2019)、“Brexit: What are EU countries doing to prepare for no deal?” , BBC News Reality Check, 4 September 2019 (https://www.bbc.com/news/world-europe-46064836)などがある
9 European Commission(2019a)
10 European Commission(2019b)
11 Timeline for key contingency measures
(1)関税・通関手続き
関税については、特別措置は予定されていないため、英国には、トラックで22%、乗用車で10%などEUがFTA等を締結している国以外の第3国に適用しているWTOの最恵国税率が適用される。

通関手続きも復活が予定されており、英国とEU間の物流のメインルートとなるドーバー海峡のフランス側や、主要な港湾や、主要貿易相手国では、合意なき離脱に対応した新たなインフラストラクチャーやテクノロジーの導入、人員増強などを進めている12
 
12 Miller(2019) “Brexit: What are EU countries doing to prepare for no deal?” , BBC News,  4 September 2019 (https://www.bbc.com/news/world-europe-46064836)
(2)ヒトの移動と市民の権利
ヒトの移動ならびに市民の権利に対しては互恵的な対応が原則となる。EU加盟国に居住する英国市民の地位と権利の保全は加盟各国の国内法によることになるため、国によってばらつきが生じ、安定性を欠く状況となるおそれがある。

(3)金融サービス
9月4日の政策文書によって、金融サービスでは、デリバティブ(金融派生商品)に関わる中央清算・決済業務(クリアリング)、英中央預託業務(デポジタリー)の業務継続のため同等性を認める期間は20年3月までとすることを確認した。

特定の金融サービスの契約のEUへの移転は離脱日から12カ月間認める。

(4)アイルランド国境管理
9月4日付けの政策文書でも、安全策が「グッド・フライデー合意」を守り、国際法に適合し、単一市場の完全性を維持する唯一の解決策と示している。

「合意なき離脱」時のアイルランド国境管理については公式の文書等による方針の表明は行われていない。EU側のバルニエ主席交渉官は、単一市場の完全性を維持するため何らかの検査や審査は必要としており、モスコビッシ欧州委員会副委員長は、境界から離れた場所での実施を示唆している。

英国政府の特別措置によりアイルランドから北アイルランドに入る物品は「検査や審査なし」、EUの方針により、北アイルランドからアイルランドに入る物品は「検査や審査あり」と不均衡な状態となる。
 

4――「合意なき離脱」の影響

4――「合意なき離脱」の影響

1|経済への下押し圧力
(1)英国
EU離脱が英国経済に及ぼす影響については、国民投票の段階から、様々な機関による試算が行われてきた13。メイ前首相の合意がまとまった18年11月には英国政府とイングランド銀行(BOE)が報告書をまとめている14。多くの試算に共通するのは、どのような形にせよ離脱は英国経済にとってマイナスだが、「合意なき離脱」の悪影響は最も大きいという点だ。「合意なき離脱」こそ「成功へのレシピ」とする離脱派のエコノミストの試算結果は例外的だ15

「合意なき離脱」直後の混乱は、離脱期限の延期で、対策のための時間的猶予が設けられたこともあり、当初想定されていたよりは穏当と見られるようになっている。しかし、CBI(2019)は、中小・零細企業では無駄なコストとなる懸念や、そもそも余裕がない、クリスマス商戦を控える時期で倉庫等の確保が困難といった理由から対応が進んでいないことを指摘している。ある程度の混乱は避けられないだろう。漏洩した政府の機密文書に基づいて、英紙サンデー・タイムス16が報じた「合意なき離脱」により想定される影響では、「ドーバー海峡を通過する物流の混乱が通常の50~70%の水準に戻るまでに3カ月程度を要する」、物流の遅延による「ロンドンや英国南東部での燃料供給の混乱」、「生鮮食品の不足と価格高騰」、「医薬品の供給不安」、「社会的ケアのコスト上昇」さらに「アイルランド国境管理の復活」、「英国全土での抗議活動の拡大」などが挙げられている。

「合意なき離脱」の影響は、正確に予測することは困難だが、数年にわたり持続するとの見方も、多くの専門家らに共通する見解だ。

予算編成のためのマクロ経済予測、財政運営の監視機能を担う英国予算責任局(OBR)は、2年に1度まとめる「財政リスク報告書」17で、「合意なき離脱」の場合の「ストレス・テスト」を行い、2020年度~22年度までの3年間でGDP比1.4~1.5%相当の年300億ポンド(3兆9000億円)借入が増加すると試算した。税収の下振れリスクは大きいと指摘している。

国連貿易開発会議(UNCTAD)18は、9月3日、「合意なき離脱」が英国の貿易にもたらす損失について、EUへの輸出では、関税の引き上げ幅が大きくなる自動車や衣類、食品などを中心に少なくとも160億ドル(1ドル=106円換算で1兆7000億円)の損失が発生するとの推計結果を公表した。非関税障壁や国境審査、国境をまたぐ生産ネットワークに混乱が生じれば、損失はさらに拡大するという。UNCTADは、「貿易継続性協定」が未締結で、英国がEU加盟国として締結したFTAなどが消失するおそれがあるトルコ、南ア、カナダ、メキシコ、日本などとの貿易でも損失が発生すると推計する 。

シンクタンク「The UK in a Changing Europe」19は、9月4日に、「合意なき離脱」への対策の進捗状況を整理した上で、起こり得る結果についての報告書をまとめている。「合意なき離脱」の結果は、家計や企業、政府の反応や、英国とEUの交渉の再開の見通しなどに依るため「予測不能」としている。

対策と企業の対応に関するCBI20の報告書も、「合意なき離脱」の影響は何年にもわたり続くとし、「合意」の大切さを強調している。
 
13 16年の国民投票前の議論については、伊藤(2016)をご参照下さい。
14 HM Government (2018) 、Bank of England (2018)
15 Minford(2019)
16 “Operation Chaos: Whitehall’s secret no‑deal Brexit preparations leaked”, The Sunday Times, August 18 2019 (https://www.thetimes.co.uk/edition/news/operation-chaos-whitehalls-secret-no-deal-brexit-plan-leaked-j6ntwvhll
17 OBR(2019)。IMFが19年4月公表の「世界経済見通し」で示した「合意なき離脱」に関する試算結果を前提条件とする。
18 UNCTAD(2019)
19 The UK in a Changing Europe(2019)
20 CBI(2019)
(2)EU及び世界経済への影響
EU、ユーロ圏にも、英国ほどではないものの、短期、中長期の影響を及ぼす。経済面での影響については、IMF(2018)が対GDP比、Mion and Ponattu (2019)が一人あたり所得の結果を示しているが、いずれもアイルランドが突出して大きく、オランダ、北欧など開放度の高い中小国が続く傾向が見られる。また、Brautzsch and Holtemöllerの国際産業連関表に基づく試算は21、「合意なき離脱」で英国の輸入が25%減少した場合の雇用への影響は、農業・食品工業と自動車工業で大きく、国別にはドイツが最も大きいという。ドイツの製造業は、目下、米中貿易戦争、中国経済の減速、環境規制の強化という逆風を受け、調整色を深めており、英国の「合意なき離脱」は、さらなる打撃となるおそれがある。

EU域外への影響については、Mion and Ponattu (2019)は、英国のEU離脱で競争条件が変わることで、域外にはプラスの影響があり、「合意なき離脱」の場合は、プラスの効果が大きくなると見ている。IMF(2019)は世界経済全体への影響は長期で0.1%とマイナスではあるものの、その幅は小さいと見ている。

筆者は、「合意なき離脱」は、欧州におけるクロスボーダーな生産体制や金融センター間の役割分担に中期的な影響を及ぼすが、世界的な影響は、米中二大国の貿易戦争の影響に比べれば限定的と見ている。
 
21 IMF(2018)、Mion and Ponattu (2019)
Xでシェアする Facebookでシェアする

経済研究部   常務理事

伊藤 さゆり (いとう さゆり)

研究・専門分野
欧州の政策、国際経済・金融

経歴
  • ・ 1987年 日本興業銀行入行
    ・ 2001年 ニッセイ基礎研究所入社
    ・ 2023年7月から現職

    ・ 2011~2012年度 二松学舎大学非常勤講師
    ・ 2011~2013年度 獨協大学非常勤講師
    ・ 2015年度~ 早稲田大学商学学術院非常勤講師
    ・ 2017年度~ 日本EU学会理事
    ・ 2017年度~ 日本経済団体連合会21世紀政策研究所研究委員
    ・ 2020~2022年度 日本国際フォーラム「米中覇権競争とインド太平洋地経学」、
               「欧州政策パネル」メンバー
    ・ 2022年度~ Discuss Japan編集委員
    ・ 2023年11月~ ジェトロ情報媒体に対する外部評価委員会委員
    ・ 2023年11月~ 経済産業省 産業構造審議会 経済産業政策新機軸部会 委員

公式SNSアカウント

新着レポートを随時お届け!
日々の情報収集にぜひご活用ください。

週間アクセスランキング

レポート紹介

【英国の合意なき離脱:対策と影響-「終わりの始まり」ですらない】【シンクタンク】ニッセイ基礎研究所は、保険・年金・社会保障、経済・金融・不動産、暮らし・高齢社会、経営・ビジネスなどの各専門領域の研究員を抱え、様々な情報提供を行っています。

英国の合意なき離脱:対策と影響-「終わりの始まり」ですらないのレポート Topへ