コラム
2016年04月19日

“生きているうち”にすべきこと-「死者」と「生者」の対話

土堤内 昭雄

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日本人男性の平均寿命が80歳を超えた今、還暦後に20年の人生がある。それは余生というには、あまりに長い。最近では、多くの友人から定年退職の知らせが届く。会社生活から家庭や地域中心の生活にどのようにシフトするのか、これまで仕事が忙しくてできなかったことに挑戦する人もいる。定年退職は社会との新たな関係性を再構築する機会でもあるのだ。

歳をとると大きなリスクを伴う冒険は難しい。しかし、『あの時これをしておけばよかった』などと後悔はしたくない。私は新たな挑戦を考える時、熟慮の末に迷ったなら必ず実行することにしている。常に、「しない後悔」より「した後悔」を選びたいと思っている。よほどの失敗をしない限りチャレンジした結果の失敗は納得できるが、何もしなかったことによる後悔は取り返しがつかないからだ。

カウントダウンというほど切実ではないが、“生きているうち”に何をすべきか考えるようになった。自分自身が“生きているうち”にでもあるのだが、自分とつながりの深い人たちが“生きているうち”にという意味もある。昔から『親孝行、したいときに親はなし』と言う。突然、長い間会っていない同級生などの訃報が届いたりして、もう一度会っておけばよかったと後悔することもある。

先日、直木賞作家の辻村深月さんが書かれた『誰かを思い、思われる』という新聞記事を読んだ。彼女の代表作「ツナグ」には、既に死んでしまった人に一度だけ会うことを叶えてくれる使者(ツナグ)が登場する。死者に対して心残りの想いを抱えて「この世」に生きる人々が、使者を求めてやってくる。自分なら既に亡くなった誰ともう一度会いたいと思うだろう。その時、伝えたいこととは何だろう。
5年前の東日本大震災では、大切な人を亡くした人が大勢いる。「この世」に残された人は、「あの世」に逝った人に伝えたかったことがあり、「あの世」に逝った人も「この世」に残った人に伝えたいことがたくさんあっただろう。震災復興の応援歌『花は咲く』を聴くたびに、彼岸と此岸に分かたれた人々の想いに胸が痛む。人間は生死を超えて『誰かを思い、思われる』存在なのだと、つくづく思う。

『花は咲く』の歌詞の中に、『わたしは何を残しただろう』という「死者」が語るフレーズが3回ある。昨年、この曲を作曲した菅野よう子さんが、最後の繰り返し部を『わたしは何を残すだろう』と「生者」のフレーズに替えたバージョンが東北地方では放送されていると言う。「生者」はいつか必ず「死者」になるが、互いに想いを馳せる時、「死者」と「生者」の対話が始まる。人生の有限性にリアリティを実感する歳になり、此岸で“生きているうち”にすべきことの輪郭が少しずつ見えてきたような気がする。
 
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土堤内 昭雄

研究・専門分野

(2016年04月19日「研究員の眼」)

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