2020年09月15日

感染症対策はなぜ見落とされてきたのか-保健所を中心とした公衆衛生の歴史を振り返る

保険研究部 主任研究員・ヘルスケアリサーチセンター・ジェロントロジー推進室兼任   三原 岳

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5|保健所発祥の地を示す2つの石碑
しかし、陸軍の意向だけで保健所が整備されたわけではなく、社会政策の実現に向けた内務省の意思も働いていた。その以前にも日本赤十字による乳幼児健康相談事業が実施されたり、簡易保険による健康保険相談所が整備されたりするなど、公衆衛生に関する官民の取り組みが徐々に始まっていたが、米ロックフェラー財団の支援を受け、公衆衛生に関する専門人材の育成などを担う組織として「国立公衆衛生院」(現在の国立保健医療科学院)が1938年3月に建設された。

さらに、公衆衛生を実践するための施設として、1935年1月には都市型のモデル保健所が東京市京橋区(現東京都中央区)明石町に、農村型のモデル保健所が1938年1月に埼玉県所沢町(現所沢市)に、それぞれ整備された。いずれも保健所の先駆けと見なされており、写真2は所沢市と中央区に建てられている「保健所発祥の地」を示す石碑である。

その後、戦時色が強まる中でも、保健所は体力検査、健康づくり政策の場として重視されるようになり、1944年までに全国で計770カ所の保健所網が整備されるに至った。つまり、新型コロナウイルス対策で最前線を担った保健所のネットワークは昭和戦前期に一定程度、整備されていたことになり、その背景には結核に対する危機感があった。
写真2:埼玉県所沢市(左)と東京都中央区(右)に建つ保健所発祥の地を示す石碑
6|敗戦からの復興
敗戦の混乱を挟んでも保健所の機能強化は進んだ21。敗戦の混乱で住宅・食糧事情や衛生環境が悪化していたほか、復員兵が持ち込む伝染病が問題視されたことで、公衆衛生を改善する必要性が意識されたためだ。

具体的には、1947年4月に発せられたGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の覚書を受けて、同年9月に保健所法が全面改正された。当初、GHQは保健所について、性病対策の拠点として認識するにとどまっていたが、厚生省との折衝を通じて保健所を通じた公衆衛生の改善を重視するようになったという。これを受けて、それまで警察が担当していた食品衛生、急性感染症予防が保健所に移管されたほか、保健所の体系的な再建・整備も進んだ。

さらに、GHQは「日本の公衆衛生を改善するお手本」を示すため、東京都杉並区の保健所をモデルに位置付けた上で、細かい指導と監督の下で技術指導を実施したという。GHQの公衆衛生福祉局長として、日本の医療改革を進めたサムス准将は「全国的保健所制度の確立こそ、われわれが最も誇りとする仕事のひとつ」と自賛している22。さらに結核予防法も改正され、BCGを含む予防接種が制度化された。

その後、自治体による上下水道の整備などが進められたほか、保健婦(現在の保健師)が農村で公衆衛生の指導などを積極的に実施した。例えば、高知県では市町村に保健婦を駐在させる「駐在保健婦」制度を採用し、公衆衛生の改善に努めた23。実際、関係者の間では「保健婦は諸外国にはあまりない存在で、ナースをスキルアップした日本独特の保健婦という人たちが地域保健に果たした役割、これは非常に大きい」「日本の公衆衛生の発展で特筆すべきことは、保健婦の総数を大幅に増やすことができた点」という評価が出ている24
 
21 戦後の保健所改革に関しては、杉山章子(1995)『占領期の医療改革』勁草書房を参照。
22 Crawford F. Sams(1962)“Medic”〔竹前栄治訳(1986)『DDT革命』岩波書店p222〕。
23 駐在保健婦に関して、木村哲也(2012)『駐在保健婦の時代』医学書院を参照。
24 『公衆衛生』2003年第67巻第1号の座談会における上畑鉄之丞聖徳大学短期大学部教授、高鳥毛敏雄大阪大学講師のコメント。
 

4――長く続いた公衆衛生の「黄昏」

4――長く続いた公衆衛生の「黄昏」

1|公衆衛生の「黄昏」特集
しかし、公衆衛生は長い「黄昏」の時期を迎えることになる。独立回復後、間もない1957年の時点で、専門誌では「公衆衛生は黄昏か?」という特集が早くも組まれており、1961年実施に向けた国民皆保険に関して厚生省の社会保障予算が割かれる可能性、事務負担の増加や低い待遇などで人材確保が難しい点などを指摘しつつ、「公衆衛生に明るい見通しが全く立たない」と嘆く保健所医師による匿名の手紙が掲載されている25。実際、医療制度に占める公衆衛生のウエイトは減少して行った。

では、こうした変化がなぜ起きたのか。ここでは、(1)疾病構造の変化、(2)医療保険財政の拡大、(3)功利主義の後退――という3つの要因を挙げる。
 
25 『公衆衛生』1957年第21巻1号、3号、5号。
2|公衆衛生の後退を招いた疾病構造の変化
こうした変化の第1の要因として、疾病構造の変化を挙げることができる。終戦直後は表2の通り、結核は死亡理由のトップだったが、上水道の整備や衛生環境の改善、特効薬の開発などを受けて、1950年代後半には死亡理由の上位から姿を消した。初めて発刊された1956年の『厚生白書』でも結核対策に相当な紙幅を割いているが、長期療養を強いられていた患者の社会復帰が課題に挙がっており、逆に言えば、結核は「死」を意味する病ではなくなっていた。その代わりに、悪性新生物(がん)など非感染性疾患(Non-Communicable Diseases,、NCDs)が疾病の中心となり、感染症対策は医療制度における主要な関心事ではなくなって行く。
表2:日本人の死因上位5位の推移(人口10万人対)
結核の脅威を概ね克服した後、社会全体が感染症に見舞われた例外としては、1960~1961年に猖獗(しょうけつ)を極めたポリオを挙げることができる。この時は米国の輸入に頼っていたワクチンが不足したため、政治的なイシューになった。そこで、古井喜美厚相は自民党の反対などを押し切り、政治決断でソ連からの生ワクチン輸入を決定した26が、これを例外とすれば、社会や政治・行政が感染症の深刻な脅威に曝される機会は訪れなかった。

むしろ、重視されたのは急速に進んだ高齢化への対応であり、多様な高齢者の生活実態・健康状態に対応することが求められた。具体的には、1978年にスタートした「国民健康づくり運動」では健康増進、疾病予防、リハビリテーションなどを包括的に進める方針が示されたほか、1983年からは高齢者のリハビリテーションなどを組み込んだ老人保健制度も開始された。

つまり、新薬の開発や公衆衛生の発達などを通じて、感染症を克服した戦後の経験が感染症に対する備えを不十分にした一方、急速に進んだ高齢化への対応が優先されたと言える。
 
26 古井は「政治家をやめるぐらいはたやすいが、しかしたくさんの犠牲者が出たときはそれで済まない。(略)私の政治生活の中の、たしかに一つの勝負でしたね」と述べている。小山路男・山崎泰彦編著(1985)『戦後医療保障の証言』総合労働研究所pp265-266。
3|医療保険財政拡大の影響
しかし、公衆衛生には健康増進や予防も含まれるため、疾病構造の変化だけが公衆衛生の「黄昏」を招いたとは言い切れない。そこで、第2の要因として、1961年に国民皆保険が整備されるなど公的医療保険の規模が膨らんだ点が挙げられる。

具体的には、「公衆衛生の黄昏」特集が発刊された1957年、厚生省は国民皆保険実施に向けた4カ年計画を策定し、1961年の国民皆保険実施に至った。その後も日本医師会の度重なる圧力を受けて、繰り返し診療報酬を引き上げたことも重なり、保険財政の規模が拡大し、厚生省は1970年代以降、慢性的な政府管掌健康保険(現協会けんぽ)の赤字対策に奔走することになった。さらに民間医療機関も拡大し、医療サービスに対するアクセスが改善した。

こうした過程で「医療=公的保険」を専ら意味するようになり、国・自治体の公費(税金)を財源とする公衆衛生のウエイトが相対的に減少した。先に触れた「黄昏」特集の匿名医師による手紙が黄昏を生み出す一因として、国民皆保険の実施に向けて予算が割かれる可能性が論じられている点は示唆的である。言い換えると、戦後日本の医療制度では、公衆衛生をベースとした「保健」よりも、病気やケガに対して事後的に給付する「保険」の拡充が選ばれたと言える。

こうした傾向は高齢化への対応でも継承された。既述した1983年開始の老人保健制度では、市町村を通じて健康づくりを進めることを企図したが、必要な経費は医療保険財源から賄われていた。同じ傾向は老人保健制度が改組する形で、2008年度にスタートした後期高齢者医療制度でも踏襲されており、40~74歳の国民に義務付けている特定健康診査・保健指導(通称メタボ健診)の経費も医療保険財源から賄われている。

つまり、「保健事業の推進で疾病または負傷の発生率が減少し、ひいては保険給付を適切にすることに繋がり、医療保険の財政安定化も図られる」という名目27の下、本来は「保険事故」に相当する疾病やケガに充当すべき保険財源を予防に振り向ける傾向が強まった。

こうした制度改正を積み重ねた結果、毎年の予算編成で厳しく査定される公費(税金)の代わりに、予防の経費を保険財源から賄う傾向が強まり、保健所を中心とした公衆衛生の存在感が小さくなった点を指摘できる28
 
27 土佐和男編著(2008)『高齢者の医療の確保に関する法律の解説』法研p85。
28 ここでは詳しく触れないが、同じ傾向は介護保険でも言える。2006年度制度改正以降、介護予防や生活支援、認知症施策などの名目で、保険財源を「流用」する「地域支援事業」を拡大させる傾向が強まっている。詳細は拙稿2020年4月1日「20年を迎えた介護保険の足取りを振り返る(上)」を参照。
4|功利主義の後退
第3に、「最大多数の最大幸福」を重視する公衆衛生の功利主義的な側面が時代に合わなくなっていた面もある。公衆衛生にも母子保健など「個」に向かい合う側面がある半面、先に触れた通り、集団の健康増進が重視されており、個人の人権侵害を招く時がある。例えば、ある個人が感染した場合、その人の家族や周辺(地域、職場)に感染が拡大しないように、感染者は隔離される。

つまり、感染者の隔離を通じて、集団を守る社会防衛の発想が前面に出て来ることになり、個人の自由は制限される。実際、感染症対策の弊害として、行き過ぎた隔離が差別や人権侵害を招く時があり、国が敗訴したハンセン病患者に対する人権侵害は典型例と言える。言い換えると、「最大多数の最大幸福」を追求する功利主義的な発想では、個人の人権や自由よりも「社会を防衛する」という全体の利益を優先する時があり、人権意識に敏感な現代の感覚に合わない場面が多くなる。

功利主義の功罪については、予防接種にも当てはまる。予防接種には副作用を伴う時があり、「感染拡大を防ぐ社会防衛のために接種を拡大するか」「それとも副作用が生まれないように予防接種を控えるか」という二律背反を迫られる。

例えば、予防接種を通じて10万人に1人の確率で副作用が生まれたとしても、社会全体で感染症拡大のリスクを抑制できた場合、集団の健康増進に関心を持つ公衆衛生の観点に立てば、その予防接種は成功と言えるかもしれない。

しかし、副作用に見舞われた当事者から見ると、「1分の1」であり、その被害は当然、看過できない。これが「最大多数の最大幸福」を目指す功利主義の欠陥であり、公衆衛生の関係で論じられる倫理問題である。実際、1960年代以降、予防接種に関して、副作用の問題が論じられるようになり、1994年の予防接種法改正で義務接種から勧奨接種に切り替えられた29
 
29 予防接種の制度改正に関する歴史については、手塚洋輔(2010)『戦後行政の構造とディレンマ』藤原書店を参照。
5|保健所が減少した理由として説明できるのか?
以上のように見ると、感染症対策を含む公衆衛生が後退した長期的な要因として、疾病構造の変化などが影響していた様子を見て取れる。言い換えると、結核に代表される通り、感染症の脅威が減退した結果、医療政策に占める公衆衛生のウエイトが小さくなり、感染症に対する備えが疎かになった点を指摘できる。

しかし、これらの要因や経緯だけでは保健所の数が大幅に減少した理由を説明しにくい。保健所の数が大幅に減少したのは1990年代以降であり、「黄昏」が長く続いたとしても、急激な減少を説明しにくいためである30。この点を説明する上では、地方分権による影響を見逃せない。以下、市町村への権限移譲など「地方分権」という文脈の下、感染症対策を含めた公衆衛生が後退した理由を考える。
 
30 ここでは詳しく触れないが、保健所の在り方は議論されていた。例えば、1959年には保健所の再編計画が策定され、都市型、農村型、中間型、僻地型に区分されるとともに、区分ごとに定員や運営方針が定められた。その後、有識者で構成する「保健所問題懇談会」が1972年にまとめた報告書は保健所の機能に関して、市町村レベル(地区)、数市町村を合わせたレベル(地域)、数地域を合わせたレベル(広域地域)に分類した上で、市町村が住民の日常生活に密着したサービスを、都道府県が高度で専門的かつ広域的なサービスの責任を負うべきだと指摘したほか、1989年には「地域保健将来構想検討会」が報告書を取りまとめ、保健所の再編を訴えていたが、いずれの報告書も実現に至らなかった。
 

5――地方分権の影響

5――地方分権の影響

1|地域保健法の影響
地方分権改革は1993年の国会決議以降、明示的に進められた一方、医療・福祉の世界では、それ以前の1970年代後半以降、市町村の役割を大きくする制度改正が相次いで実施された。

具体的には、1978年からスタートした「国民健康づくり運動」の下、健康増進、疾病予防、リハビリテーションを包括的に進める総合的な対策が進められることになり、これらを進める拠点として市町村に「保健センター」が置かれた。さらに、1983年に施行された老人保健法でも、市町村を中心に高齢者の予防・健康づくりを進める方針が打ち出されたほか、1990年制定の福祉八法31では老人福祉計画の策定を義務付けるなど、やはり市町村の役割を大きくした。

以上のような制度改正が実施されたのは、集団による健康増進よりも、地域の実情や個人の状況に応じて健康づくりを進めることに力点を置いたためであり、急速に進んだ高齢化に対応するため、住民に身近な市町村への権限移譲が段階的に進んだわけである。

こうした流れの下、保健所法を半世紀ぶりに大改正する形で、地域保健法が1994年に制定された。この時の法改正でも広域的な視点が必要な感染症対策よりも、住民の生活に根差した健康づくりが重視され、市町村の責任を大きくする方向性が打ち出された。当時の国会会議録を紐解いて見よう32
 
今回の法律改正案は、一つは生活者の立場を重視するということとともに地方分権を推進する、二十一世紀を展望しながらそのための抜本的見直しをしようということでございます。まず都道府県は、エイズ対策や難病対策など高度で専門的な保健サービスを提供することにしたい。市町村におきましては、母子保健サービスや老人保健サービスなどの身近な保健サービスを提供するとともに、既に移譲されております福祉サービスと連携のとれた総合的なサービスを提供する場にしていただきたいと思っているわけでございます。
 
つまり、生活者の立場と地方分権を重視する方針の下、都道府県と市町村の権限や保健所の機能を見直した結果、エイズ対策など高度で専門的な保健対策は都道府県、住民の身近な業務は市町村に委ねたとしている。その際には保健・福祉の連携を市町村レベルで強化することも想定されており、この点は「既に移譲されております福祉サービスと連携」という発言に表れている。さらに、都道府県の設置する保健所については、2次医療圏ごとに設置する形で保健所の担当区域が見直された。

この結果、市町村は保健センターを拠点に住民の生活に身近な母子保健や老人保健を、都道府県の保健所は食品衛生や感染症対策などを担うこととなった。こうした状況の下、高齢化に対応するための健康づくりに力点が置かれるようになり、広域的な対応を担う保健所の数が減少したと言える。

実際、厚生労働省(2001年に改組)の「地域保健対策検討会」が2012年に公表した報告書では、感染症対策の重要性に言及しているとはいえ、全体としては高齢化を見据えつつ、地域住民の繋がりを意味する社会関係資本(social capital)に軸足を置いたコミュニティベースの健康づくりに力点が置かれていた。

つまり、保健所数の減少など感染症に対する脆弱性を理解する上では、こうした地域保健法を含めた社会の変化や一連の制度改正を通じて、医療制度における公衆衛生や感染症対策のウエイトを小さくした影響を考慮する必要がある。
 
31 福祉八法とは、老人福祉法、身体障害者福祉法、精神薄弱者福祉法、児童福祉法、母子寡婦福祉法、社会福祉事業法、老人保健法、社会福祉・医療事業団法を指す。
32 1994年6月21日第129回国会参議院厚生委員会における大内啓伍厚相の発言。発言は一部を省略した。
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保険研究部   主任研究員・ヘルスケアリサーチセンター・ジェロントロジー推進室兼任

三原 岳 (みはら たかし)

研究・専門分野
医療・介護・福祉、政策過程論

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