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- 「推し」とは何なのか(1)-「推し選」に対して思うこと
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コラム
2025年11月10日
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■要旨
「推す」という言葉を聞かない日がない。熱心に人生をかけて「推し活」をしている人もいれば、ガチ恋勢として推しに本気で恋をしている人もいる。引退や結婚などのニュースで立ち直れないほどのショックを受ける者もいる。そうした人にとって「推し」は何よりも尊く、「推し活」は単なる趣味ではなく、一つの生き方に近い。 しかし、いつの間にか「推し」という言葉は、個人の熱を離れ、社会の仕組みの中に取り込まれていった。 本来は“関係”であったはずのものが、“構造”の中で語られ、利用されはじめている。 本稿では2024年2月に行われた京都市長選挙で使用された「推し選」という言葉の違和感を手掛かりに、「推し活」という言葉が持つ本来の輪郭について、オタクの端くれでもある筆者が私論を認める。
■目次
1――「推し選」に対して抱いた不快感
2――“カテゴリー内のベター
3――推し=関係
4――推し活という言葉が持つ輪郭
「推す」という言葉を聞かない日がない。熱心に人生をかけて「推し活」をしている人もいれば、ガチ恋勢として推しに本気で恋をしている人もいる。引退や結婚などのニュースで立ち直れないほどのショックを受ける者もいる。そうした人にとって「推し」は何よりも尊く、「推し活」は単なる趣味ではなく、一つの生き方に近い。 しかし、いつの間にか「推し」という言葉は、個人の熱を離れ、社会の仕組みの中に取り込まれていった。 本来は“関係”であったはずのものが、“構造”の中で語られ、利用されはじめている。 本稿では2024年2月に行われた京都市長選挙で使用された「推し選」という言葉の違和感を手掛かりに、「推し活」という言葉が持つ本来の輪郭について、オタクの端くれでもある筆者が私論を認める。
■目次
1――「推し選」に対して抱いた不快感
2――“カテゴリー内のベター
3――推し=関係
4――推し活という言葉が持つ輪郭
1――「推し選」に対して抱いた不快感
過ぎた11月4日は、その語呂合わせからオタクたちのあいだで「いい推し(1104)の日」と呼ばれている。SNSを開けば、誰もが思い思いの“推し”を語り、タイムラインは愛と熱で満ちていた。「推し」という言葉を耳にしない日はない。いまやそれは、我々の日常にすっかり溶け込み、あらゆる場面で使われるひとつの消費文化として定着している。筆者自身、長らくオタク文化の研究を続けてきた身であり、自らもオタクの端くれとしてこの言葉と向き合ってきたが、近年「推し」という言葉があまりに大衆化し、軽やかに使われるようになったことに、どこかもやもやした違和感を覚えている1。
その違和感を決定づけたのが、昨年2月に行われた京都市長選挙だった。任期満了に伴い1月21日に告示され、2月4日の投開票まで14日間の選挙戦が展開された。選挙権年齢が18歳以上に引き下げられて以降、二度目となる市長選で、市選挙管理委員会は近年広がりをみせる「推し活」にあやかり、「推し選」というキャッチフレーズを掲げた。SNSを活用して若年層への周知を図り、投票率の向上を狙ったという。しかし、この「推し選」という言葉を目にしたとき、筆者は強い違和感を覚えた。
1 もっとも、言葉が時代とともに意味を変えていくのは自然な現象である。たとえば現在では、「好き」や「気になっている」程度の軽い感覚でも“推し”と呼ばれるようになった。また、“推し活”が一種の自己表現やライフスタイルとして定着しているのも、推しという言葉が持つ包容力の広さゆえだろう。また、かつてのアイドルの親衛隊や、ヨン様フィーバーに沸いたファンたちが「推し活」という言葉を使わなかったのは、単にその語が当時存在しなかっただけのことだ。今振り返れば、彼女たちの行為もまぎれもなく“推し活”だったと言えるし、その過去の現象を現在の言葉で「推し活」と呼び直すことにも、何の不自然さも感じない。現代の文脈において、個人(=消費者)が能動的に「好きなもの」と向き合う行為は、総じて“推し活”や“オタ活”と呼ばれており、消費文化の研究者としての立場から見れば、それは肯定すべき現象でもあると考えている。
その違和感を決定づけたのが、昨年2月に行われた京都市長選挙だった。任期満了に伴い1月21日に告示され、2月4日の投開票まで14日間の選挙戦が展開された。選挙権年齢が18歳以上に引き下げられて以降、二度目となる市長選で、市選挙管理委員会は近年広がりをみせる「推し活」にあやかり、「推し選」というキャッチフレーズを掲げた。SNSを活用して若年層への周知を図り、投票率の向上を狙ったという。しかし、この「推し選」という言葉を目にしたとき、筆者は強い違和感を覚えた。
1 もっとも、言葉が時代とともに意味を変えていくのは自然な現象である。たとえば現在では、「好き」や「気になっている」程度の軽い感覚でも“推し”と呼ばれるようになった。また、“推し活”が一種の自己表現やライフスタイルとして定着しているのも、推しという言葉が持つ包容力の広さゆえだろう。また、かつてのアイドルの親衛隊や、ヨン様フィーバーに沸いたファンたちが「推し活」という言葉を使わなかったのは、単にその語が当時存在しなかっただけのことだ。今振り返れば、彼女たちの行為もまぎれもなく“推し活”だったと言えるし、その過去の現象を現在の言葉で「推し活」と呼び直すことにも、何の不自然さも感じない。現代の文脈において、個人(=消費者)が能動的に「好きなもの」と向き合う行為は、総じて“推し活”や“オタ活”と呼ばれており、消費文化の研究者としての立場から見れば、それは肯定すべき現象でもあると考えている。
2――“カテゴリー内のベター”
そもそも「推し」という言葉は、「人にすすめたいほど気に入っている人物や物」を指す言葉である。そして「推しは落ちるもの」というフレーズがオタクのあいだで使われているように、それは個人――つまり消費者――が特定の対象にのめり込み、強い感情を注いでいる状態を表す。ゆえに、この言葉の主体性や視点は、常にファン、すなわち消費者の側にあるべきだと筆者は考える。「推し」とは人生をかけて好きになり、自分にとって生きる意味の大部分を占めるほどの存在であり、生活の優先順位の最上位に置かれるものなのだ。
この「推し」という言葉に変化が生まれ始めたのは、AKB48の台頭による影響が大きいと筆者は考えている2。AKB48が社会全体から注目を集めるようになると、2012年の選抜総選挙以降、その模様はゴールデンタイムにテレビ中継され、瞬間最高視聴率は28.0%、翌年には32.7%に達した。もはや彼女たちの序列そのものが国民的関心事となり、メディアがそれを煽るほどに、一般視聴者の間にも「自分なら誰を推すか」という擬似的な当事者意識が芽生えた。
この頃から、「推し」はオタクのあいだだけで交わされる内輪的な言葉ではなくなり、誰もが話題のフックとして使う“社会語”へと変化していった。つまり「誰推し?」と尋ねることは、特定のファンダムへの所属を示すものではなく、コミュニケーションのフックとして機能し始めたのだ。深い愛着や知識がなくても会話が成り立つ、そんな“社会語化”の過程のなかで、「推し」は情熱の象徴から日常の共通語へと変貌していったのである。実際に、「誰推し?」と仲間内で盛り上がった記憶のある読者も多いのではないだろうか。
しかし、この問いは、実際に誰かを熱心に推しているかどうかを尋ねているわけではない。むしろ「○○派」「○○が可愛い」「強いて言えば○○が好き」といった軽い選好のニュアンスで使われており、「推し」という言葉が本来もっていた熱量や一途さからは明らかに逸脱して、特定のジャンルやグループの中から“何かを選んだ結果”を指す言葉へと変化していった。つまり、深い愛着や献身の対象ではなく、選択肢の中で最も好ましいものを示すラベルとして使われるようになったのだ。
その結果、「推しラーメン」や「推しカフェ」といったように、「推し」が名詞の前に置かれ、好きなものやお気に入りを尋ねたり語ったりする文脈で使われるようになった。いまや広告やメディアでも、「推し○○」という言い回しが頻繁に見られるようになっている。しかし、そうした使われ方をすることで、「推し」はもはやその人の中で特別な存在というよりも、「このジャンルの中でならこれが好き」「とりあえずこれを選んでおけば間違いない」といった、“カテゴリー内のベター”を指す言葉へと変わりつつあるように思える。つまり、誰かを心の支えとして生きるほどの感情を表していた言葉が、いまや単に選択肢の中で“選んだ結果”を示す語としても使われるようになったのだ。もちろん、言葉の変化そのものは避けられないとしても、特別な思い入れのない“カテゴリー内のベター”を「推し」と呼ぶことには、どうしても違和感を覚える。
それが、「推し選」が象徴的な例である。もし、本当に芸能人に対して使われるような文脈で、その候補者を人生を懸けて応援している人がいるのなら話は別だが3、よほどのことがなければ、政治家や、ましてや当選歴のない一般の候補者を「推し」と呼ぶ人はいないだろう。実際には多くの有権者が数ある選択肢の中から選ばされた“結果”を「推し」と呼ばされるにすぎない。それは若者文化に親和的であるかのように見せかけた本来の「推し」の意味とは本質的に異なる使われ方だ。
前述したとおり、推し活には強い感情が付きまとう。筆者は消費性という側面から、オタクを「自身の感情に「正」にも「負」にも大きな影響を与えるほどの依存性を見出した興味対象に対して、時間やお金を過度に消費し精神的充足を目指す人」と定義している。熱心に人生をかけて「推し活」をしている人もいれば、ガチ恋勢として推しに本気で恋をしている人もいる。引退や結婚などのニュースで立ち直れないほどのショックを受ける者もいる。そうした人にとって「推し」は何よりも尊く、「推し活」は単なる趣味ではなく、一つの生き方に近い。
にもかかわらず、特に強い思い入れがあるわけでもなく候補者を選んだだけなのに、この選挙が「推し選」というコンテクストをまとうことで、投票者は自動的に“推している”立場に置かれてしまう。意地悪な言い方をすれば、「その候補者があなたにとって人にすすめたいほど気に入っている人物なのですね」と、勝手にラベルを貼られてしまう構造でもあるのだ4。
前述したとおり、「推し」という言葉の視点は常にファン――すなわち応援する側――にあり、その能動的な感情の動きによって生まれる行為が「推し活」である。それにもかかわらず、近年はそのキャッチーさやマーケティング上の使いやすさばかりが先行し、人の「推す」という感情がビジネスや広報の都合のために利用されている。若者にウケる言葉だからと、この選挙のように安易に転用するのも、どうにも押しつけがましい。真剣に推している人々へのリスペクトが感じられないのだ。
「推し」は消費対象であるがゆえに、そのマーケットが活性化することや、推し活を支えるグッズや機会が提供されること=経済性が生まれること 自体は、オタクにとって必要な営みだ。しかし、「推し活」という言葉が生む経済効果や若者の関心に、安易に便乗しようとするやり方には、やはり違和感を覚える。
2 「推し」という言葉そのものは、80 年代頃からアイドルオタク界隈で発祥した俗語とされてお. り、2ちゃんねる上でモーニング娘。のオタクを中心に使われていたというのが通説の1つだ。あくまでも「推し」という言葉が広く周知されたきっかけがAKB48であると意味だ。
3 近年では、特定の議員や政党を「推し」として、SNS上で“推し活”的に応援する動きも見られる。動画配信の増加やSNSでの投稿の活発化により、政治家の私生活やパーソナルな側面が可視化されるようになったことで、そうした一面に親近感や好感を抱き、支持を表明する人も少なくない。同時に、議員の側もそうした「推し活的」な共感や親近感、感情的支持を意識したような発信を行う例が増えている。もちろん、それ自体を否定するつもりはないが、「推し」であるという理由だけでその人物の発言や行動を無批判に肯定し、異なる意見や批判を“ノイズ”として排除する態度には危うさを感じる。“推し活”という文化が政治に持ち込まれると、感情的な支持と合理的な判断の境界が曖昧になり、民主主義の前提である批判的思考が損なわれるおそれがある。政治や選挙においては、“推し活”のようなカジュアルな視点で候補者や有権者を捉えるべきではない。政治とは本来、共感や好悪の感情ではなく、公共の利益と合理的な判断に基づいてなされるべき営みである。その区別を見失うと、政治的支持が“好感度”や“親近感”に還元されてしまう危険がある。そうした意味でも、政治の領域に“推し活”の文化的枠組みが安易に持ち込まれることには、慎重であるべきだと考える。
もっとも、“推し”という言葉が常に妄信的な肯定を意味するわけではない点も付記しておきたい。オタクの多くは、推しの言動を批判的に受け止めたり、時には「推し変」と呼ばれる対象の変更に至ったりするなど、柔軟な距離感を保ちながら関係を築いている。つまり、「推し」であることは必ずしも全面的な肯定を意味せず、むしろ自らの価値観との照合や再評価を通して形成される動的な関係性なのであることは留意したい。
4 実際にそのような認識で選挙が行われているとは筆者も思ってはいないが、「推し選」というラベルはそのような意味を待たせることもできてしまう。
この「推し」という言葉に変化が生まれ始めたのは、AKB48の台頭による影響が大きいと筆者は考えている2。AKB48が社会全体から注目を集めるようになると、2012年の選抜総選挙以降、その模様はゴールデンタイムにテレビ中継され、瞬間最高視聴率は28.0%、翌年には32.7%に達した。もはや彼女たちの序列そのものが国民的関心事となり、メディアがそれを煽るほどに、一般視聴者の間にも「自分なら誰を推すか」という擬似的な当事者意識が芽生えた。
この頃から、「推し」はオタクのあいだだけで交わされる内輪的な言葉ではなくなり、誰もが話題のフックとして使う“社会語”へと変化していった。つまり「誰推し?」と尋ねることは、特定のファンダムへの所属を示すものではなく、コミュニケーションのフックとして機能し始めたのだ。深い愛着や知識がなくても会話が成り立つ、そんな“社会語化”の過程のなかで、「推し」は情熱の象徴から日常の共通語へと変貌していったのである。実際に、「誰推し?」と仲間内で盛り上がった記憶のある読者も多いのではないだろうか。
しかし、この問いは、実際に誰かを熱心に推しているかどうかを尋ねているわけではない。むしろ「○○派」「○○が可愛い」「強いて言えば○○が好き」といった軽い選好のニュアンスで使われており、「推し」という言葉が本来もっていた熱量や一途さからは明らかに逸脱して、特定のジャンルやグループの中から“何かを選んだ結果”を指す言葉へと変化していった。つまり、深い愛着や献身の対象ではなく、選択肢の中で最も好ましいものを示すラベルとして使われるようになったのだ。
その結果、「推しラーメン」や「推しカフェ」といったように、「推し」が名詞の前に置かれ、好きなものやお気に入りを尋ねたり語ったりする文脈で使われるようになった。いまや広告やメディアでも、「推し○○」という言い回しが頻繁に見られるようになっている。しかし、そうした使われ方をすることで、「推し」はもはやその人の中で特別な存在というよりも、「このジャンルの中でならこれが好き」「とりあえずこれを選んでおけば間違いない」といった、“カテゴリー内のベター”を指す言葉へと変わりつつあるように思える。つまり、誰かを心の支えとして生きるほどの感情を表していた言葉が、いまや単に選択肢の中で“選んだ結果”を示す語としても使われるようになったのだ。もちろん、言葉の変化そのものは避けられないとしても、特別な思い入れのない“カテゴリー内のベター”を「推し」と呼ぶことには、どうしても違和感を覚える。
それが、「推し選」が象徴的な例である。もし、本当に芸能人に対して使われるような文脈で、その候補者を人生を懸けて応援している人がいるのなら話は別だが3、よほどのことがなければ、政治家や、ましてや当選歴のない一般の候補者を「推し」と呼ぶ人はいないだろう。実際には多くの有権者が数ある選択肢の中から選ばされた“結果”を「推し」と呼ばされるにすぎない。それは若者文化に親和的であるかのように見せかけた本来の「推し」の意味とは本質的に異なる使われ方だ。
前述したとおり、推し活には強い感情が付きまとう。筆者は消費性という側面から、オタクを「自身の感情に「正」にも「負」にも大きな影響を与えるほどの依存性を見出した興味対象に対して、時間やお金を過度に消費し精神的充足を目指す人」と定義している。熱心に人生をかけて「推し活」をしている人もいれば、ガチ恋勢として推しに本気で恋をしている人もいる。引退や結婚などのニュースで立ち直れないほどのショックを受ける者もいる。そうした人にとって「推し」は何よりも尊く、「推し活」は単なる趣味ではなく、一つの生き方に近い。
にもかかわらず、特に強い思い入れがあるわけでもなく候補者を選んだだけなのに、この選挙が「推し選」というコンテクストをまとうことで、投票者は自動的に“推している”立場に置かれてしまう。意地悪な言い方をすれば、「その候補者があなたにとって人にすすめたいほど気に入っている人物なのですね」と、勝手にラベルを貼られてしまう構造でもあるのだ4。
前述したとおり、「推し」という言葉の視点は常にファン――すなわち応援する側――にあり、その能動的な感情の動きによって生まれる行為が「推し活」である。それにもかかわらず、近年はそのキャッチーさやマーケティング上の使いやすさばかりが先行し、人の「推す」という感情がビジネスや広報の都合のために利用されている。若者にウケる言葉だからと、この選挙のように安易に転用するのも、どうにも押しつけがましい。真剣に推している人々へのリスペクトが感じられないのだ。
「推し」は消費対象であるがゆえに、そのマーケットが活性化することや、推し活を支えるグッズや機会が提供されること=経済性が生まれること 自体は、オタクにとって必要な営みだ。しかし、「推し活」という言葉が生む経済効果や若者の関心に、安易に便乗しようとするやり方には、やはり違和感を覚える。
2 「推し」という言葉そのものは、80 年代頃からアイドルオタク界隈で発祥した俗語とされてお. り、2ちゃんねる上でモーニング娘。のオタクを中心に使われていたというのが通説の1つだ。あくまでも「推し」という言葉が広く周知されたきっかけがAKB48であると意味だ。
3 近年では、特定の議員や政党を「推し」として、SNS上で“推し活”的に応援する動きも見られる。動画配信の増加やSNSでの投稿の活発化により、政治家の私生活やパーソナルな側面が可視化されるようになったことで、そうした一面に親近感や好感を抱き、支持を表明する人も少なくない。同時に、議員の側もそうした「推し活的」な共感や親近感、感情的支持を意識したような発信を行う例が増えている。もちろん、それ自体を否定するつもりはないが、「推し」であるという理由だけでその人物の発言や行動を無批判に肯定し、異なる意見や批判を“ノイズ”として排除する態度には危うさを感じる。“推し活”という文化が政治に持ち込まれると、感情的な支持と合理的な判断の境界が曖昧になり、民主主義の前提である批判的思考が損なわれるおそれがある。政治や選挙においては、“推し活”のようなカジュアルな視点で候補者や有権者を捉えるべきではない。政治とは本来、共感や好悪の感情ではなく、公共の利益と合理的な判断に基づいてなされるべき営みである。その区別を見失うと、政治的支持が“好感度”や“親近感”に還元されてしまう危険がある。そうした意味でも、政治の領域に“推し活”の文化的枠組みが安易に持ち込まれることには、慎重であるべきだと考える。
もっとも、“推し”という言葉が常に妄信的な肯定を意味するわけではない点も付記しておきたい。オタクの多くは、推しの言動を批判的に受け止めたり、時には「推し変」と呼ばれる対象の変更に至ったりするなど、柔軟な距離感を保ちながら関係を築いている。つまり、「推し」であることは必ずしも全面的な肯定を意味せず、むしろ自らの価値観との照合や再評価を通して形成される動的な関係性なのであることは留意したい。
4 実際にそのような認識で選挙が行われているとは筆者も思ってはいないが、「推し選」というラベルはそのような意味を待たせることもできてしまう。
3――推し=関係
そして何よりも、自らは推し活をしていないにもかかわらず、“推し活”という現象にどこかで参与しようとする人々が、しばしば勘違いしていることがある。それは、オタクは「推し活」をしたいわけではないということだ。オタクたちは“推し活がしたい”のではない。彼らはただ、“推したい誰かがいる”だけなのだ。言い換えれば、従来の「○○のファン」「○○を応援している」という言葉を、「推し活」という新しいラベルに置き換えているにすぎない。「推し活」は目的化された活動ではなく、推しという存在への能動的な感情が動いた結果として、関係性のなかから派生的に生じる実践にすぎない。推しが存在しない限り、その行為もまた存在しない。つまり「推し活」という言葉は、行為そのものの本質を示すものではないのだ。だからこそ、「推し○○」のような形で広告に使われたり、当事者意識を持たせるための言葉として「推し」が用いられることも、ファンと対象の関係性という側面から見れば、どこか奇妙な話だ。「推し」とは、作られるものでも、誰かに促されて選ぶものでもない。ファンと対象との関係のなかで積み重ねられ、その関係が完成することによって初めて成立するものなのだ。
言い換えれば、「推し」とは概念ではなく関係なのだ。人によって思い浮かべる対象も、注ぐ熱量も異なる。「推し活」は目的ではなく、それぞれが自身の経験のなかで築いた、誰かにとっての固有の関係が形となった結果にすぎない。また、過去のレポート5で筆者は、「ヲタ活(推し活)」について、興味対象を消費しているオタクとしての消費が顕在化している動作をあえて「ヲタ活」と呼称することで、自身のアイデンティティの切り替えや、オタクとしてのオン/オフを行っていると述べたが、その側面から見ても、「推し活」という言葉は主体的なマインドによって成立する言葉だと思うのだ。
ゆえに、いま世の中で使われている「推し」や「推し活」という言葉の多くは、実際には“その人の推し”の不在のもとで語られ、私たちに向けられている。そこでは、個人が誰を、どれほどの熱量で好いているのかという感情の深度が置き去りにされ、「推し活」とは“献身的に応援する行為”併せて前述した“カテゴリー内のベター”を指す言葉だという表層的な理解だけが流通し、当事者の感情を伴わない“社会語”として定着してしまったと筆者は思うのだ。
5 廣瀬涼(2020)「Z世代の情報処理と消費行動(5)-若者の「ヲタ活」の実態」基礎研レポート 2020年03月03日 https://www.nli-research.co.jp/report/detail/id=63828?pno=2&site=nli#anka2
言い換えれば、「推し」とは概念ではなく関係なのだ。人によって思い浮かべる対象も、注ぐ熱量も異なる。「推し活」は目的ではなく、それぞれが自身の経験のなかで築いた、誰かにとっての固有の関係が形となった結果にすぎない。また、過去のレポート5で筆者は、「ヲタ活(推し活)」について、興味対象を消費しているオタクとしての消費が顕在化している動作をあえて「ヲタ活」と呼称することで、自身のアイデンティティの切り替えや、オタクとしてのオン/オフを行っていると述べたが、その側面から見ても、「推し活」という言葉は主体的なマインドによって成立する言葉だと思うのだ。
ゆえに、いま世の中で使われている「推し」や「推し活」という言葉の多くは、実際には“その人の推し”の不在のもとで語られ、私たちに向けられている。そこでは、個人が誰を、どれほどの熱量で好いているのかという感情の深度が置き去りにされ、「推し活」とは“献身的に応援する行為”併せて前述した“カテゴリー内のベター”を指す言葉だという表層的な理解だけが流通し、当事者の感情を伴わない“社会語”として定着してしまったと筆者は思うのだ。
5 廣瀬涼(2020)「Z世代の情報処理と消費行動(5)-若者の「ヲタ活」の実態」基礎研レポート 2020年03月03日 https://www.nli-research.co.jp/report/detail/id=63828?pno=2&site=nli#anka2
4――推し活という言葉が持つ輪郭
それでも、私たちは「推し活」という言葉を使う。なぜなら、きっとそれが“共通の安心”を与えてくれると信じているからだ。ライブで涙を流した夜や、握手をした手のぬくもり、突然の卒業発表、チケットの当落――そうした、誰もが誰かを応援する中で経験しうる瞬間の積み重ねが、「推し活」という言葉に託されているからである。誰もがそれぞれ違う対象を推していても、その行為の中で感じる高揚や喪失、喜びや痛みの輪郭はどこか似ている。誰かを好きになること、何かに心を奪われることは、本来ひどく個人的で、他人には説明しにくい。けれど、「推し活」という言葉を介すれば、その熱や喜び、時に痛みさえも、社会の中で理解されうる形に翻訳できる。つまり、「推し活」という言葉は、私たちにとって、誰かを好きでいるという極めて個人的な感情を、他者と共有できるかたちに変換してくれるメディアでもあるのだ。
そして同時に、誰かを推すという行為を、社会の中で“理解されるもの”へと変えてきた言葉でもある。かつては、誰かに強く心を寄せることや、生活の多くをその対象に費やすことは、ともすれば「行き過ぎ」や「痛い」「子供っぽい」と捉えられてきた。けれど今では、「推し活」という言葉がその感情に名前を与え、語るための場所を作り出してくれた。この言葉があるからこそ、誰かを推すことは奇異な行為ではなく、ひとつの自然な感情表現として受け止められるようになったと筆者は考える6。
それゆえに、そのようなコンテクストを擁しているからこそ、——特に市場や行政7が無遠慮に踏み込んでくるとき、その繊細なバランスは容易に壊れてしまう。経済的不安や将来への停滞感、自分の人生に希望を持てない状況のなかで、推しに救われた人、オタ活に支えられて生きている人は決して少なくない。推しやオタク文化は、しばしば不条理な現実から逃れるための避難所として機能してきた。だからこそ、その背景にある社会の歪みを生み出してきた要因でもある政治が、救済や希望の象徴でもある「推し活」を若者向けのPR道具として利用することに、筆者は強い嫌悪を覚える。政治が人々の希望や安心をきちんと支えられる社会であれば、「推し活」がここまで救済として機能する必要もなかったかもしれない。だからこそ、その言葉を借りて何かを売ろうとする行為や、若者の票を集めようとする企みに対して、どうしても耐え難い違和感を覚えるのだ。
「推す」ということは、誰に強いられるものでもなく、誰かに許可を求めるものでもない。それは、生きる中で自らが選び取った、きわめて個人的で、そして自由な感情のかたちである。だからこそ、政治や社会の側には、その「推す自由」までも奪ってほしくない。“推し”とは、本来、制度の外にあるべきものなのだ。
6 握手会のために何千枚ものCDを購入するという行為は、一般的には理解されがたい。しかし、“推し活”という文脈が共有されていることで、その行為は推しに対する強い感情の表れとして翻訳される。なぜそのような行為に至るのかという感情的な背景が共有されることで、推し活をしている者同士のあいだでは、そうした行為が理解可能なものとして受け入れられているのである。
7 もちろん筆者自身も、研究者として「推し活」やそれに関する文化を取り上げ、言葉にしてきた以上、その現象をどこかで“消費”している立場にあることは否定できない。このように私論を綴ることが、あたかも“オタクを代表して語っている”ように映ることに、違和感や不快感を抱く人もいるだろう。
そして同時に、誰かを推すという行為を、社会の中で“理解されるもの”へと変えてきた言葉でもある。かつては、誰かに強く心を寄せることや、生活の多くをその対象に費やすことは、ともすれば「行き過ぎ」や「痛い」「子供っぽい」と捉えられてきた。けれど今では、「推し活」という言葉がその感情に名前を与え、語るための場所を作り出してくれた。この言葉があるからこそ、誰かを推すことは奇異な行為ではなく、ひとつの自然な感情表現として受け止められるようになったと筆者は考える6。
それゆえに、そのようなコンテクストを擁しているからこそ、——特に市場や行政7が無遠慮に踏み込んでくるとき、その繊細なバランスは容易に壊れてしまう。経済的不安や将来への停滞感、自分の人生に希望を持てない状況のなかで、推しに救われた人、オタ活に支えられて生きている人は決して少なくない。推しやオタク文化は、しばしば不条理な現実から逃れるための避難所として機能してきた。だからこそ、その背景にある社会の歪みを生み出してきた要因でもある政治が、救済や希望の象徴でもある「推し活」を若者向けのPR道具として利用することに、筆者は強い嫌悪を覚える。政治が人々の希望や安心をきちんと支えられる社会であれば、「推し活」がここまで救済として機能する必要もなかったかもしれない。だからこそ、その言葉を借りて何かを売ろうとする行為や、若者の票を集めようとする企みに対して、どうしても耐え難い違和感を覚えるのだ。
「推す」ということは、誰に強いられるものでもなく、誰かに許可を求めるものでもない。それは、生きる中で自らが選び取った、きわめて個人的で、そして自由な感情のかたちである。だからこそ、政治や社会の側には、その「推す自由」までも奪ってほしくない。“推し”とは、本来、制度の外にあるべきものなのだ。
6 握手会のために何千枚ものCDを購入するという行為は、一般的には理解されがたい。しかし、“推し活”という文脈が共有されていることで、その行為は推しに対する強い感情の表れとして翻訳される。なぜそのような行為に至るのかという感情的な背景が共有されることで、推し活をしている者同士のあいだでは、そうした行為が理解可能なものとして受け入れられているのである。
7 もちろん筆者自身も、研究者として「推し活」やそれに関する文化を取り上げ、言葉にしてきた以上、その現象をどこかで“消費”している立場にあることは否定できない。このように私論を綴ることが、あたかも“オタクを代表して語っている”ように映ることに、違和感や不快感を抱く人もいるだろう。
(2025年11月10日「研究員の眼」)
03-3512-1776
経歴
- 【経歴】
2019年 大学院博士課程を経て、
ニッセイ基礎研究所入社
・公益社団法人日本マーケティング協会 第17回マーケティング大賞 選考委員
・令和6年度 東京都生活文化スポーツ局都民安全推進部若年支援課広報関連審査委員
【加入団体等】
・経済社会学会
・コンテンツ文化史学会
・余暇ツーリズム学会
・コンテンツ教育学会
・総合観光学会
廣瀬 涼のレポート
| 日付 | タイトル | 執筆者 | 媒体 |
|---|---|---|---|
| 2025/11/10 | 「推し」とは何なのか(1)-「推し選」に対して思うこと | 廣瀬 涼 | 研究員の眼 |
| 2025/10/21 | 選択と責任──消費社会の二重構造(2)-欲望について考える(3) | 廣瀬 涼 | 基礎研レター |
| 2025/10/17 | 選択と責任──消費社会の二重構造(1)-欲望について考える(2) | 廣瀬 涼 | 基礎研レター |
| 2025/09/25 | 情報・幸福・消費──SNS社会の欲望の三角形-欲望について考える(1) | 廣瀬 涼 | 基礎研レター |
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【「推し」とは何なのか(1)-「推し選」に対して思うこと】【シンクタンク】ニッセイ基礎研究所は、保険・年金・社会保障、経済・金融・不動産、暮らし・高齢社会、経営・ビジネスなどの各専門領域の研究員を抱え、様々な情報提供を行っています。
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