2021年03月15日

福島原発事故から10年、「こころの減災」への鍵 (4)―現在バイアス―

保険研究部 准主任研究員 岩﨑 敬子

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1――はじめに

災害は人々の社会関係やさまざまな財の量を変化させることで、人々のこころの健康に影響を与える可能性があることが確認されてきた1。このことは、災害は人々のこころの健康だけではなく、人々が選択や行動を決めるよりどころとなる人々の好み(経済学では「選好」と呼ぶ)にも影響を与える可能性があることを示唆する。選好は行動の土台であり、災害によって影響を受けたものの市場価格や、社会関係の変化に対する反応の決定要因になると考えられる。そのため、災害と選好の関係を明らかにすることは、災害とこころの健康の間のつながりを説明するために重要な役割を果たす可能性がある2

本稿では、筆者ら3が行ってきた福島県双葉町の住民を対象とした継続的なアンケート調査において、その分析から浮かび上がってきた「こころの減災」への3つの鍵(ソーシャル・キャピタル、損失回避、現在バイアス)のうち、3つ目の鍵である、時間選好における現在バイアス4に注目する可能性について説明する。具体的には、現在バイアスと健康の関係に関する先行研究及び、災害の現在バイアスへの影響に関する先行研究の概要を紹介した上で、筆者らが福島県双葉町のデータを用いて行った、災害による現在バイアスの変化を通したこころの健康への影響を検証した実証分析の結果とその政策的な示唆を紹介する。
 
1 岩﨑敬子(2021年3月11日)『福島原発事故から10年、「こころの減災」への鍵 (2) ―ソーシャル・キャピタル―』基礎研レター(https://www.nli-research.co.jp/report/detail/id=67191?site=nli
岩﨑敬子(2021年3月12日)『福島原発事故から10年、「こころの減災」への鍵 (3)-損失回避-』基礎研レター
https://www.nli-research.co.jp/report/detail/id=67194?site=nli
2 Sawada et al. 2018
3 東京大学「災害からの生活基盤復興に関する国際比較」プロジェクト(東京大学大学院経済学研究科 教授 澤田康幸、ニッセイ基礎研究所 研究員 岩﨑敬子)
4 現在バイアスはひとことで言うと、今の喜びを大きく感じる傾向で、夏休みの宿題の実行などの場面で、先延ばし傾向を引き起こす。詳細な説明については、以下を参照。
岩﨑敬子、新社会人のための経済学コラム「後回し傾向で、貯蓄額は 211 万円減少・肥満率は 2.8 ポイント」
https://www.nissay.co.jp/enjoy/keizai/110.html
 

2――現在バイアスと健康の関係に関する研究

2――現在バイアスと健康の関係に関する研究

1| 現在バイアスと健康
現在バイアスは、健康状態に影響を与えることが知られている。ダイエットを例にとれば、現在バイアスが強いと、今食べることの喜びを大きく感じ、将来痩せることの価値は大きく割り引かれて感じることで、ダイエットの成功が難しいことが予想される。また、現在バイアスは運動を先延ばしにすることでもダイエットの成功を妨げる可能性がある5。多くの人にとって、運動するよりも、ソファーでゴロゴロしている方が快適だからである。さらに、現在バイアスは食生活にも影響する可能性がある。将来の健康のために手間をかけて健康的な料理をつくって食べるよりも、ファストフードを手軽に食べるという選択をする可能性があるからである。実際に、現在バイアスの程度が強い人は肥満である確率が高いことが報告されている6

現在バイアスは、肥満をもたらす過食や不摂生な食生活、運動不足の他にも、飲酒、喫煙、薬物への依存を引き起こす可能性があることが報告されている7。これらの行動はすべて、将来の健康被害というコストを割り引いて小さく感じ、現在の飲酒、喫煙、薬物使用による喜びをそのコストに対して大きく感じてしまうという現在バイアスによってもたらされると考えることができる。飲酒や喫煙を辞めるための素晴らしい計画を立てていたとしても、実際に計画を実行する時がやってくると、その時飲酒や喫煙をする喜びを大きく感じて結局辞めることができないのだ。
 
5 White and Dow(2016)
6 池田(2012)
7 O’Donoghue and Rabin(2003)
2| 現在バイアスとこころの健康
現在バイアスとこころの健康の関係については、こころの健康が現在バイアスに影響しているという視点と、現在バイアスがこころの健康に影響しているという視点の、両面から研究が進められてきている。今のところ、より確立されているのは、こころの健康が現在バイアスに影響を与えるという流れだろう。この流れを確立した代表的な研究は、2014 年にScience 誌で発表された、ある実験論文である8。この実験では、トリートメントグループの人々に、コルチゾールというストレスホルモンの値を高めるヒドロコルチゾンを投与し、その後の現在バイアスの程度を計測した。その結果、ヒドロコルチゾンが投与されたグループでは、そうでないコントロールグループの人と比較して、平均的に先送り傾向が強くなることが確認されたのである。この結果は実験で因果関係の存在を示していることから、こころの健康が現在バイアスに影響を与えるという関係の方向を証明する強い証拠になっている。

一方、先述したように、現在バイアスは、健康に悪いさまざまな行動を引き起こすことが知られている。そして、こうした健康に悪い行動に含まれる過度の飲酒や喫煙は、こころの健康に負の影響を与えることが報告されている9。そのことから、現在バイアスは健康に悪い行動を引き起こすことを通して、こころの健康に負の影響を与える可能性が示唆されるのである。このように、こころの健康と現在バイアスの関係についてはどちらの方向の影響も考えられるため、今後より実証研究の積み重ねが必要な分野だと言える。
 
8 Haushofer and Fehr(2014)
9 Story et al.(2014), Ikeda et al.(2010), Kang and Ikeda(2014, 2016)
 

3――災害の現在バイアスへの影響に関する研究

3――災害の現在バイアスへの影響に関する研究

伝統的な経済学では個人の選好は時間を通じて変化せず、社会から影響も受けないものとして扱われてきた。そのため、個人の行動の変化は、選好の変化ではなく、周りの状況や選択肢の変化によって説明されてきた。しかし、近年は、個々人の選好は社会経済的な状況から影響を受ける可能性があることが、様々な研究で示されてきている。そうした中で、人々の社会経済的な状況を変化させうる災害の選好への影響についても、研究が蓄積されてきている状況だ。しかし、これまで報告されてきた災害の選好への影響はさまざまで、一貫した結果は得られていない。

また、選好の中でも、災害の現在バイアスへの影響については、実証研究が非常に少ない。しかし、災害被災者の間に過食、ギャンブル、飲酒、喫煙などさまざまな健康によくないと考えられる行動を引き起こす可能性があることが知られているのは、前節でも述べた通りだ。そのため、災害が現在バイアスに及ぼす影響を把握することは重要と考えられる。災害の現在バイアスへの影響を捉えた数少ない研究では、フィリピンの洪水(2012 年)の被害や、東日本大震災(2011 年)の津波被害が、現在バイアスを強める傾向があったことが報告されている10
 
10 Sawada and Kuroishi(2015a, b), Akesaka(2019), Kuroishi and Sawada(2019)
 

4――双葉町のデータで示される災害被害による…

4――双葉町のデータで示される災害被害による現在バイアスの増幅によるこころの健康悪化

現在バイアスがもたらす過度の飲酒や喫煙といった健康に悪い行動は、こころの健康に影響を与えることが知られているため、災害と現在バイアスの関係を検証することは、災害とこころの健康のつながりに新たな知見をもたらす可能性がある。さらに、原子力発電所事故による被災者は、自然災害と人的災害の複合災害という特殊な環境にあるために、他の災害とは異なる重要な特徴がみられる可能性もある。そこで、筆者らは、福島原子力発電所事故の被害を受けた双葉町の健康政策への貢献と、こうした先行研究への貢献を目的として、災害被害の大きさと現在バイアスの関係に関する実証分析を行った11

この分析では、震災前の現在バイアスの強さを先行研究に従って「夏休みの宿題をやった時期」で捉え12、震災後の現在バイアスの強さを「年賀状を出した時期」で捉えた。また、災害被害の大きさを双葉町の自宅被害の大きさによって捉え、災害前の現在バイアスが災害被害によってどう変化したのかを検証した。その結果、災害被害によって現在バイアスが増大することが確認された。さらに、現在バイアスの増大はこころの健康13の悪化につながっている可能性があることも確認された。つまり、「災害被害→ 現在バイアスの増大→ こころの健康悪化」というつながりが示されたのだ。
 
11 Sawada et al. (2018)
12 Ikeda et al.(2010), Kang and Ikeda(2014, 2016)
13 本研究では、こころの健康を、K6という国際的に使用されている全般的なこころの健康状態を示す指標で捉えている。詳細は、以下を参照。
岩﨑敬子(2021年3月10日)『福島原発事故から10年、「こころの減災」への鍵 (1) ―イントロ・ダクション―』基礎研レター(https://www.nli-research.co.jp/report/detail/id=67164?site=nli
 

5――災害による健康被害軽減のための…

5――災害による健康被害軽減のためのコミットメント・デバイスやナッジの活用

災害被害による現在バイアスの増大がこころの健康悪化につながるというメカニズムの可能性は、災害被害によって増大された現在バイアスによる健康によくない行動を防ぐために、さまざまなコミットメント・デバイスの活用やナッジが重要であるという政策的な示唆をもたらす。ナッジとは、人々に選択の余地を残しながらも、人々の行動の特性等を利用して、自発的によりよい行動を促すことをいう。また、コミットメント・デバイスは、計画通りにならなかったときのペナルティを設定しておく仕組みで、現在バイアスへの先送りが起こらないようにすることである。

たとえば仮設住宅のコミュニティセンターにランニングマシンを置くことは、先送りされやすい健康行動を促すナッジと捉えられる。また、復興公営住宅について、住民同士の交流が自然に生まれやすいつくりに設計することも実践されてきた。こころの減災の鍵としてソーシャル・キャピタルを紹介した基礎研レター14で記載したように、人との交流はこころの健康を保つのに重要な役割を果たしているため、こうした設計は現在バイアスによる人との交流の先送りを防ぎ、こころの健康を良好に保つためのナッジと捉えることができる。仮設住宅等で行われる住民の交流会も同様に捉えることができる。実際に、東日本大震災の被災地で行われた「はまらっせん農園」15というプロジェクトでは、仮説住宅に隣接する農地が住民に開放された。その結果、このプロジェクトは、住民の社会参加や住民間の交流を促し、参加者の身体的・精神的な健康状態の改善につながった可能性があることが報告されている16。他にも、飲酒日記をつけて飲酒量の目標を医師等に宣言する方法は、自分への評価に対するペナルティを課したコミットメント・デバイスの活用と考えることができる。筆者らの分析結果は、こころの健康の悪化を防ぐために、被災地においてこうしたコミットメント・デバイスやナッジの活用を拡大することの有効性を示唆している。
 
14 岩﨑敬子(2021年3月11日)『福島原発事故から10年、「こころの減災」への鍵 (2) ―ソーシャル・キャピタル―』基礎研レター(https://www.nli-research.co.jp/report/detail/id=67191?site=nli
15 57)「はまらっせん農園」(http://hito.natsu-mi.jp/extra/hamaras_farm.html 2021 年 1 月 26 日アクセス)
16 Takahashi et al.(2015)
 

6――こころの健康が現在バイアスを悪化させる可能性

6――こころの健康が現在バイアスを悪化させる可能性

現在バイアスとこころの健康との関係については、前節でも紹介したように、こころの健康が悪化すると現在バイアスの傾向が大きくなるという筆者らが示した方向に対して、逆の方向の因果関係を証明する先行研究も蓄積されてきている。私たちの分析結果とこうした逆因果を示す先行研究の存在は、現在バイアスとこころの健康の間に双方向の関係があることを示唆している。そうした場合、災害が「心理的要因による貧困の罠(psychological poverty trap)」17のきっかけとなっている可能性が考えられる。この「罠」とは、貧困によるストレスが現在バイアスの程度を強めることで、今日の浪費など経済的に近視眼的な選択につながり、そのことがさらに貧困を深刻にするというサイクルに陥る状況である。災害による現在バイアスの強まりやこころの健康の悪化が、そのきっかけになる可能性が考えられるということである。今後は、こうした災害が「心理的要因による貧困の罠」につながる可能性についても検証が行われていく必要があるだろう。
 
本稿では、災害下における現在バイアスへの注目の可能性について、筆者らが行った研究の概要とその政策的な示唆を紹介したが、筆者が執筆した『福島原発事故とこころの健康-実証経済学で探る減災・復興の鍵』(日本評論社、2021年3月15日発売開始)18では、現在バイアスの概念についての詳しい説明や、選好の社会的決定要因に関する先行研究等を整理して紹介している。また、本稿で紹介した筆者らの分析についても、具体的な分析モデルや数値的な結果を示して詳しく説明している。読者の興味に合わせてぜひご参照頂きたい。
 
17 Sawada and Aida(2019), Haushofer and Fehr(2014)
18 書籍に関するWEBサイト: https://www.nippyo.co.jp/shop/book/8515.html

参考文献

池田新介(2012)『自滅する選択──先延ばしで後悔しないための新しい経済学』東洋経済新報社
Akesaka, M.(2019)“Change in Time Preferences: Evidence from the Great East Japan Earthquake,” Journal of Economic Behavior and Organization, 166(C): 239-245
Haushofer, J. and Fehr, E.(2014)“On the Psychology of Poverty,” Science, 344(6186): 862-867
Ikeda, S., Kang, M.-I. and Ohtake, F.(2010)“Hyperbolic Discounting, the Sign Effect, and the Body Mass Index,” Journal of Health Economics, 29(2): 268-284.
Kang, M. -I. and Ikeda, S.(2014)“Time Discounting and Smoking Behavior: Evidence from a Panel Survey,” Health Economics, 23(12): 1443-1464.
Kang, M. -I. and Ikeda, S.(2016)“Time Discounting, Present biases, and Health-Related Behaviors: Evidence from Japan,” Economics and Human Biology, 21: 122-136.
Kuroishi, Y. and Sawada, Y.(2019)“On the Stability of Preferences: Experimental Evidence from Two Disasters,” CIRJE Discussion Paper F-1130.
O’Donoghue, T. and Rabin, M.(2003)“Addiction and Present-Biased Preferences,” Game Theory and Information 0303005, University Library of Munich, Germany
Sawada, Y. and Aida, T.(2019)“The Field Experiment Revolution in Development Economics,” in Kawagoe T. and Takizawa H. eds., Diversity of Experimental Methods in Economics, Springer: 39-60 Sawada, Y., Iwasaki, K. and Ashida, T.(2018)“Disasters Aggravate Present Bias Causing Depression: Evidence from the Great East Japan Earthquake,” CREPE Discussion Paper No. 47.
Sawada, Y. and Kuroishi, Y.(2015a)“How to Strengthen Social Capital in Disaster Affected Communities? The Case of the Great East Japan Earthquake,” in Sawada, Y. and Oum, S. eds., Disaster Risks, Social Preferences, and Policy Effects: Field Experiments in Selected ASEAN and East Asian Countries, ERIA Research Project Report FY2013-34: 163-199.
Sawada, Y. and Kuroishi, Y.(2015b)“How Does a Natural Disaster Affect People’s Preference? The Case of a Large Scale Flood in the Philippines Using the Convex TimeBudget Experiments,” in Sawada, Y. and Oum, S.(eds.), Disaster Risks, Social Preferences, and Policy Effects: Field Experiments in Selected ASEAN and East Asian Countries’, ERIA Research Project Report FY2013, 34: 27-56, ERIA.
Story, G. W., Vlaev, I., Seymour, B., Darzi, A. and Dolan, R. J.(2014)“Does Temporal Discounting Explain Unhealthy Behavior? A Systematic Review and Reinforcement Learning Perspective,” Frontiers in Behavioral Neuroscience, 8: 76
Takahashi, S., Ishiki, M., Kondo, N., Ishiki, A., Toriyama, T., Takahashi, S., Moriyama, H., Ueno, M., Shimanuki, M., Kanno, T., Oki, T. and Tabata, K.(2015)ʠHealth Effects of a Farming Program to Foster Community Social Capital of a Temporary Housing Complex of the 2011 Great East Japan Earthquake,ʡ Disaster Medicine and Public Health Preparedness, 9(2): 103-110.
White, J. S. and Dow, W. H.(2016)“Intertemporal Choices for Health,” in Roberto, C. A. and Kawachi, I. eds., Behavioral Economics and Public Health, Chapter 2: 27-62, Oxford: Oxford University Press.
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保険研究部   准主任研究員

岩﨑 敬子 (いわさき けいこ)

研究・専門分野
応用ミクロ計量経済学・行動経済学 

経歴
  • 【職歴】
     2010年 株式会社 三井住友銀行
     2015年 独立行政法人日本学術振興会 特別研究員
     2018年 ニッセイ基礎研究所 研究員
     2021年7月より現職

    【加入団体等】
     日本経済学会、行動経済学会、人間の安全保障学会
     博士(国際貢献、東京大学)
     2022年 東北学院大学非常勤講師
     2020年 茨城大学非常勤講師

(2021年03月15日「基礎研レター」)

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