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- 選択と責任──消費社会の二重構造(2)-欲望について考える(3)
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2025年10月21日
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1――私たちは本当に「自分が何を欲しいのか」を理解しているのだろうか
我々は消費において「失敗したくない」と強く考えている。関西学院大学・鈴木謙介ゼミの調査1によれば、Z世代の半数以上が購入前に「その商品が自分に合わなかった場合のリスクを考慮する」(53.2%)と回答している。また、購入後の回答をみると、「より安い価格で同じ商品を見つけた」(62.5%)、「事前に調べた情報ほどの商品ではなかった」(52.2%)、「購入後により自分に合いそうな選択肢を発見した」(51.0%)と、後悔する回答が多く見られている。さらに興味深いのは、「友人にSNSで商品を共有した際に反応が悪かった」(29.3%)という項目で、約3割が他者からの評価を消費の成否と結びつけている点である。
このような消費に対する慎重な姿勢は、いわゆる「失われた30年」に象徴される経済停滞が影響している。物価や消費税の上昇により可処分所得が減少する一方、SNSを通じて魅力的な情報や欲しいものは増えている。そのため、消費者は「興味はあるが失敗したくない」という矛盾した状況に置かれている。結果として、Z世代を中心に消費は一層慎重になり、リスク回避的な姿勢が強まっているのである。つまり、「選択肢は増えたのに、使えるお金は限られている。その中でSNSによる他者評価も意識するから、消費はますますリスクをはらみ、若者は失敗を避けたいと考える」のだ。
Z世代に限らず、我々は消費に失敗したくないからこそ、選択することに責任を感じている。欲しいものが明確であれば、選択を誤ることはなく、消費に失敗することもないだろう。しかし、果たして私たちは本当に「自分が何を欲しいのか」を理解しているのだろうか。数多くの選択肢や情報に囲まれ、他者からの評価や社会的イメージを意識せざるを得ない状況の中で、欲求の輪郭はしばしば曖昧になり、自分自身でも確信を持てないまま選択を迫られているのかもしれない。
1 関西学院大学・鈴木謙介ゼミナール「「Z 世代のコスパ感覚」に関する調査」2024 /08 /30 https://seminar.szk.cc/genz_research_20240830.pdf
このような消費に対する慎重な姿勢は、いわゆる「失われた30年」に象徴される経済停滞が影響している。物価や消費税の上昇により可処分所得が減少する一方、SNSを通じて魅力的な情報や欲しいものは増えている。そのため、消費者は「興味はあるが失敗したくない」という矛盾した状況に置かれている。結果として、Z世代を中心に消費は一層慎重になり、リスク回避的な姿勢が強まっているのである。つまり、「選択肢は増えたのに、使えるお金は限られている。その中でSNSによる他者評価も意識するから、消費はますますリスクをはらみ、若者は失敗を避けたいと考える」のだ。
Z世代に限らず、我々は消費に失敗したくないからこそ、選択することに責任を感じている。欲しいものが明確であれば、選択を誤ることはなく、消費に失敗することもないだろう。しかし、果たして私たちは本当に「自分が何を欲しいのか」を理解しているのだろうか。数多くの選択肢や情報に囲まれ、他者からの評価や社会的イメージを意識せざるを得ない状況の中で、欲求の輪郭はしばしば曖昧になり、自分自身でも確信を持てないまま選択を迫られているのかもしれない。
1 関西学院大学・鈴木謙介ゼミナール「「Z 世代のコスパ感覚」に関する調査」2024 /08 /30 https://seminar.szk.cc/genz_research_20240830.pdf
2――知り合いの姪っ子の話
知り合いの姪っ子の話だ。ある日知り合いが姉の家に遊びに行くと、当時3歳だった姪が嬉しそうに彼女を迎えたそうだ。姉(姪の母)は、私の知人にこっそり、「今日○○が着ている洋服は○○が選んで買ったんだよ。」と耳打ちすると、「○○ちゃんすごいね!自分で選んだんだってね!!」と、彼女はその姪を大げさに褒め称えたそうだ。しかし、姪の反応は冷静で、彼女に「これはお母さんが選んだんだよ」と返答したらしい。困惑した彼女と姪の母は、「○○ちゃんが選んだの忘れちゃった?」と返したそうだが、姪はその時の状況を丁寧に彼女に話したという。
なんでも、姪の母が姪のためにあらかじめ選んだ2つの洋服(選択肢)から、姪に選ばせたのだそうだ。確かに、姪は選択をしている。姪の母はその選択という行為から姪が選んで購入したという経験を積ませたかったのだが、姪にとってはたくさん店内に並んでいる洋服から自分が選んだわけではなく、あくまでも母親が選んだものから選んだ(選ばされた)にすぎず、自身の意思で決める「選択」ではなかった。
そもそも我々は選んでいるようで消費対象を選んではいない。何故なら「欲しいもの」が何かわからず、他人が言語化(実像化)したもの(自身の知る消費できるもののデータベース)の中から、「欲しい気がする」モノが消費行動に駆り立てるからだ。例えば、「喉が渇いた」という欲求を満たそうとした際に、甘い、冷たい、炭酸飲料、150円前後、といったその欲求を満たす条件を下に、自身の過去の消費行動や情報に基づいたデータベースから想起したモノを購入する。この場合、その選択肢はコーラかもしれないし、ジンジャーエールかもしれないし、サイダーかもしれない。そこから、今手に入れることができる選択肢の中から選ぶ理由を検討するのである。
欲望のイメージがより明確であれば、炭酸飲料→コーラ→コカ・コーラ→コカ・コーラ・ゼロといったように特定の商品に絞られていく。しかし、ここで選ばれた商品はあくまでの当人が知っている中での飲料カテゴリーであるため、この世の中に数えきれないほどある飲料カテゴリーから消費者が選んだわけではない。自分の経験上では、この喉の渇きを潤すためには「コカ・コーラ・ゼロ」が適していると判断したとしても、例えば自身の知らないブラジルで売っているコーラの方がもしかしたらよりその欲求を満たすのに適しているのかもしれないし、もしかしたら、そもそもコーラではない自身の知らないカテゴリーの飲料のほうが適している可能性もあるのだ。前述したとおり、私たちの欲求はあくまでも自身の経験側を元に充足されているにすぎないのだ。
また同様に我々は仕事帰りにスーパーマーケットで自身を労うためにビールを買う事がある。陳列されているラインナップから今日の気分にあったものをレジに持っていく。これもあなた自身が選んだのには変わらないが、数えきれないほどのラインナップから店側が選んで、その店の選んだラインナップという限られた選択肢の中で選択を強いられているのである。ラインナップが悪い店で、仕方ないからと妥協して買うのは、本来飲みたかった銘柄じゃないけど渋々それを選んでいるわけだ。(いまいちだからと店を変えても、結局品ぞろえの悪かった店に置いてあった銘柄をその店で選んでしまう事もある)。そこで選ばれたビールは確かにあなたのビールを飲みたいという欲求を満たしているかもしれないが、果たして本当に「欲しかった」モノをあなたは選んだと言えるのだろうか。
世の中には何千何万という商品が存在しており、そのすべてを認知することは不可能である。さらに、販売者の用意した商品ラインナップは、何千何万とある商品の中からスクリーニングされた結果でもある。認知内/外、商品ラインナップ内/外、どちらにせよ自身に与えられた選択肢は、無限の中から自ら選び取った結果ではなく、他者によってあらかじめ設定された枠組みの中での選択に過ぎない。私たちは自由に選んでいるようでいて、実際には「選ばされている」のである。また、自分の欲求そのものも、過去の経験則2が基になっており、その枠を超えたものを「欲しい」と感情が見いだされることの方が稀である。
それでも、人はその限られた枠の中で最適な選択を行おうとする。自らの好みや価値観をもとに「自由に決めている」と感じるが、その自由は構造的に制約されたものである。つまり、私たちの消費行動は、無限の可能性の中での自由ではなく、「誰かが設計した有限の選択肢の中での自由」というパラドックスの上に成り立っている。
2 他人が実現した幸福を自身の再現したいと駆り立てられる他社の存在によって生み出される欲求や過去の自身が経験した消費体験や知識など。また、そもそも過去の自身の消費経験も他人の消費結果を顧みて見出された欲求であることの方が多い。
なんでも、姪の母が姪のためにあらかじめ選んだ2つの洋服(選択肢)から、姪に選ばせたのだそうだ。確かに、姪は選択をしている。姪の母はその選択という行為から姪が選んで購入したという経験を積ませたかったのだが、姪にとってはたくさん店内に並んでいる洋服から自分が選んだわけではなく、あくまでも母親が選んだものから選んだ(選ばされた)にすぎず、自身の意思で決める「選択」ではなかった。
そもそも我々は選んでいるようで消費対象を選んではいない。何故なら「欲しいもの」が何かわからず、他人が言語化(実像化)したもの(自身の知る消費できるもののデータベース)の中から、「欲しい気がする」モノが消費行動に駆り立てるからだ。例えば、「喉が渇いた」という欲求を満たそうとした際に、甘い、冷たい、炭酸飲料、150円前後、といったその欲求を満たす条件を下に、自身の過去の消費行動や情報に基づいたデータベースから想起したモノを購入する。この場合、その選択肢はコーラかもしれないし、ジンジャーエールかもしれないし、サイダーかもしれない。そこから、今手に入れることができる選択肢の中から選ぶ理由を検討するのである。
欲望のイメージがより明確であれば、炭酸飲料→コーラ→コカ・コーラ→コカ・コーラ・ゼロといったように特定の商品に絞られていく。しかし、ここで選ばれた商品はあくまでの当人が知っている中での飲料カテゴリーであるため、この世の中に数えきれないほどある飲料カテゴリーから消費者が選んだわけではない。自分の経験上では、この喉の渇きを潤すためには「コカ・コーラ・ゼロ」が適していると判断したとしても、例えば自身の知らないブラジルで売っているコーラの方がもしかしたらよりその欲求を満たすのに適しているのかもしれないし、もしかしたら、そもそもコーラではない自身の知らないカテゴリーの飲料のほうが適している可能性もあるのだ。前述したとおり、私たちの欲求はあくまでも自身の経験側を元に充足されているにすぎないのだ。
また同様に我々は仕事帰りにスーパーマーケットで自身を労うためにビールを買う事がある。陳列されているラインナップから今日の気分にあったものをレジに持っていく。これもあなた自身が選んだのには変わらないが、数えきれないほどのラインナップから店側が選んで、その店の選んだラインナップという限られた選択肢の中で選択を強いられているのである。ラインナップが悪い店で、仕方ないからと妥協して買うのは、本来飲みたかった銘柄じゃないけど渋々それを選んでいるわけだ。(いまいちだからと店を変えても、結局品ぞろえの悪かった店に置いてあった銘柄をその店で選んでしまう事もある)。そこで選ばれたビールは確かにあなたのビールを飲みたいという欲求を満たしているかもしれないが、果たして本当に「欲しかった」モノをあなたは選んだと言えるのだろうか。
世の中には何千何万という商品が存在しており、そのすべてを認知することは不可能である。さらに、販売者の用意した商品ラインナップは、何千何万とある商品の中からスクリーニングされた結果でもある。認知内/外、商品ラインナップ内/外、どちらにせよ自身に与えられた選択肢は、無限の中から自ら選び取った結果ではなく、他者によってあらかじめ設定された枠組みの中での選択に過ぎない。私たちは自由に選んでいるようでいて、実際には「選ばされている」のである。また、自分の欲求そのものも、過去の経験則2が基になっており、その枠を超えたものを「欲しい」と感情が見いだされることの方が稀である。
それでも、人はその限られた枠の中で最適な選択を行おうとする。自らの好みや価値観をもとに「自由に決めている」と感じるが、その自由は構造的に制約されたものである。つまり、私たちの消費行動は、無限の可能性の中での自由ではなく、「誰かが設計した有限の選択肢の中での自由」というパラドックスの上に成り立っている。
2 他人が実現した幸福を自身の再現したいと駆り立てられる他社の存在によって生み出される欲求や過去の自身が経験した消費体験や知識など。また、そもそも過去の自身の消費経験も他人の消費結果を顧みて見出された欲求であることの方が多い。
3――あるスーパーマーケットでの話
先日スーパーマーケットで買い物していた時のことだ。「この店何もないね!」。まだ幼稚園か小学校低学年くらいの男の子の声が静かな店内に響く。他の客の視線を集めバツの悪そうにする母親らしき人の姿を見ながら、ふと先ほどの男の子の言葉を思い返した。「この店には何もない」。そんなことはない。目の前には魚や肉の生鮮食品が広がり、振り返れば何千、何万もの調味料や加工食品、お菓子などが並んでいる。そこに“もの”はあるのに、何もないという何とも不可思議な発言のようだが、この少年の真意は言うまでもなく「自分が欲しいと思うモノがこの店には何もない」ということである。
我々も日々生活を通して様々な購買機会に巡り合うわけだが、何も購入することなく店を後にする事は頻繁にあるし、この少年のように「何もなかったな」と、その店を評価することもある。この場合、我々はわかっているのだ。何が欲しくないか、を。私たちも買い物を終えたあとに「何もなかったな」と感じることがある。しかし、実際には商品棚には何千、何万という商品が並んでいる。つまり「何もない」とは、モノが存在しないのではなく、「自分が欲しいと思うものがなかった」という意味にほかならない。
小売店に並ぶ商品は、すでに膨大な候補からスクリーニングされたものであり、その中に欲しいものが見つからなかったというだけである。言い換えれば、私たちは「欲しいもの」を明確に言語化することは難しいが、「いらないもの」を識別することは比較的容易なのである。
「ほしいものが、ほしいわ。」。これは、1988年西武百貨店のポスターに使われていたキャッチコピーで、筆者が消費の研究にのめり込んでいったきっかけでもある。女優の宮沢りえがキスをする瞬間を切り取ったポスターが池袋のSEIBUデパートの壁面に貼られたことを覚えている読者もいるのではないだろうか。1988年は正にバブル絶頂期であった。日本においては第二次世界大戦後、大衆消費社会を迎え、「必要なもの」の消費が一巡化すると、モノの豊かさによって生活を便利で快適にしようとする時代を迎えた。この時代の消費者は他人より新しいモノや珍しいモノを所有したり、モノの豊富さに価値を見出しており、このような1970年代以後の消費潮流は「モノ消費」と呼ばれている。モノによる欲求の充足は、その機能的価値(使用用途)による利便性のみならず、新規性や希少性によって他人との差別化をも生み出していた。その後主に1980年代においては、モノのみならずブランドやデザインといった記号によって他人と差別化を行い、そこで生まれた他者との差異によって、自己の欲求を満たしていく消費が行われていった。欲しいものの対象が使用価値によってもたらされる便益を目的としたモノではなく、モノが発信する記号(メッセージ)へと移行していったともいえる。車は1台あれば十分だろうし、バッグも日常使うモノが1つあればモノを運ぶという目的は十分に達成されるだろう。その十分にモノに満たされた消費者の生活に割って入るために、例えば「流行」「コマーシャル」「トレンドの創造」といった形でメディアや企業は我々が本来必要ではない人工的な「欲求」を創造した。そのような人工的な「欲求」は、他者を顧みた関係的価値の構築や差別化の側面からみれば、消費者にとって役に立つモノなのかもしれないが、それは消費者自身の内在的に生み出された欲望ではない。
「ほしいものが、ほしいわ。」という言葉は、消費するコトが美徳であったバブル全盛期の背景から、湧き上がる欲求を次から次へと充足していく「(私が)ほしい(と思った)ものが(全て)ほしいわ。」というバブル期の欲望を現わしているようにも見えなくもない。しかし、筆者は「何が自分では欲しいかわからない、でも自分が欲しいと思うモノが欲しい」といったように、他人を顧みた消費や人工的に生み出された欲求からの解放を現わしているのではないかと思うのだ。一方で、何が欲しいかわからないけれども、自分が欲しいと感じるモノ(感覚)そのものは自分で理解しているからこそ、前述した通り、「いらないモノはいらない」と、我々は“何が欲しくないか”は理解しているのである。
ここで面白いデータを紹介しよう。博報堂生活総合研究所が定点的に行っている若者調査の「どうしても欲しいものが思いあたらない」という問いの結果を見ると、1994年当時の若者は34.8%であったのに対して2024年の若者は47.8%と13ポイントも増加している。1988年当時ですら既にモノに溢れて欲求自体が生まれにくくなっていた中で、その傾向は変わらず、我々消費者は今もかわらず欲しいものを探究しているのである。では我々はどのようにしてわたしの欲しいを見つけ出しているのだろうか。
我々も日々生活を通して様々な購買機会に巡り合うわけだが、何も購入することなく店を後にする事は頻繁にあるし、この少年のように「何もなかったな」と、その店を評価することもある。この場合、我々はわかっているのだ。何が欲しくないか、を。私たちも買い物を終えたあとに「何もなかったな」と感じることがある。しかし、実際には商品棚には何千、何万という商品が並んでいる。つまり「何もない」とは、モノが存在しないのではなく、「自分が欲しいと思うものがなかった」という意味にほかならない。
小売店に並ぶ商品は、すでに膨大な候補からスクリーニングされたものであり、その中に欲しいものが見つからなかったというだけである。言い換えれば、私たちは「欲しいもの」を明確に言語化することは難しいが、「いらないもの」を識別することは比較的容易なのである。
「ほしいものが、ほしいわ。」。これは、1988年西武百貨店のポスターに使われていたキャッチコピーで、筆者が消費の研究にのめり込んでいったきっかけでもある。女優の宮沢りえがキスをする瞬間を切り取ったポスターが池袋のSEIBUデパートの壁面に貼られたことを覚えている読者もいるのではないだろうか。1988年は正にバブル絶頂期であった。日本においては第二次世界大戦後、大衆消費社会を迎え、「必要なもの」の消費が一巡化すると、モノの豊かさによって生活を便利で快適にしようとする時代を迎えた。この時代の消費者は他人より新しいモノや珍しいモノを所有したり、モノの豊富さに価値を見出しており、このような1970年代以後の消費潮流は「モノ消費」と呼ばれている。モノによる欲求の充足は、その機能的価値(使用用途)による利便性のみならず、新規性や希少性によって他人との差別化をも生み出していた。その後主に1980年代においては、モノのみならずブランドやデザインといった記号によって他人と差別化を行い、そこで生まれた他者との差異によって、自己の欲求を満たしていく消費が行われていった。欲しいものの対象が使用価値によってもたらされる便益を目的としたモノではなく、モノが発信する記号(メッセージ)へと移行していったともいえる。車は1台あれば十分だろうし、バッグも日常使うモノが1つあればモノを運ぶという目的は十分に達成されるだろう。その十分にモノに満たされた消費者の生活に割って入るために、例えば「流行」「コマーシャル」「トレンドの創造」といった形でメディアや企業は我々が本来必要ではない人工的な「欲求」を創造した。そのような人工的な「欲求」は、他者を顧みた関係的価値の構築や差別化の側面からみれば、消費者にとって役に立つモノなのかもしれないが、それは消費者自身の内在的に生み出された欲望ではない。
「ほしいものが、ほしいわ。」という言葉は、消費するコトが美徳であったバブル全盛期の背景から、湧き上がる欲求を次から次へと充足していく「(私が)ほしい(と思った)ものが(全て)ほしいわ。」というバブル期の欲望を現わしているようにも見えなくもない。しかし、筆者は「何が自分では欲しいかわからない、でも自分が欲しいと思うモノが欲しい」といったように、他人を顧みた消費や人工的に生み出された欲求からの解放を現わしているのではないかと思うのだ。一方で、何が欲しいかわからないけれども、自分が欲しいと感じるモノ(感覚)そのものは自分で理解しているからこそ、前述した通り、「いらないモノはいらない」と、我々は“何が欲しくないか”は理解しているのである。
ここで面白いデータを紹介しよう。博報堂生活総合研究所が定点的に行っている若者調査の「どうしても欲しいものが思いあたらない」という問いの結果を見ると、1994年当時の若者は34.8%であったのに対して2024年の若者は47.8%と13ポイントも増加している。1988年当時ですら既にモノに溢れて欲求自体が生まれにくくなっていた中で、その傾向は変わらず、我々消費者は今もかわらず欲しいものを探究しているのである。では我々はどのようにしてわたしの欲しいを見つけ出しているのだろうか。
4――他人との境遇の差が欠乏感を生む
以前のレポート3で触れたように、人間の欲望は自己完結的に生まれるのではなく、常に他者を媒介として高次化していく。無人島での例が示すように、他人の存在が現れた瞬間に「羨望」が生じ、自身の欲望は拡張される。ラカンが「欲望は他者の欲望である」と述べたように、私たちは他人が何を欲しているかを通じてしか欲望を位置づけられない。またジラールが論じた「模倣の欲望」に従えば、私たちが求めているのは商品の実体そのものではなく、他人がそれを消費したことで得られたライフスタイルや幸福であり、それをマネして自分も同じ幸福を手に入れたい、という欲望に他ならない。この構造のもとでは、他人を通じて知ってしまった幸福が、逆に欠乏感を生み出す。新たに知った幸福は、私たちを「それを持っていない/消費していない人」というマイナスの状態に位置づけるからである。そして、その欠乏を埋める手段は、他人と同じ方法で欲望を満たすことしかないのである。
例えば小学生の「○○君は持っているのに」「クラスのみんなは買ってもらえるのに」というおねだりは典型的だ。ここでは、他人との境遇の差が欠乏感を生み、そのマイナス(劣等感)を埋めることが目的化している。親がそれを買い与えることは、境遇の差を一時的に解消する点ではポジティブな行為である。しかし、それはあくまで劣等感を埋めただけにすぎず、相対的にフラットな状態に戻ったに過ぎない。必ずしも「より幸せになった」というプラスの充足を意味するわけではないのである。
さて、ここまでを考察すると「(私が)ほしい(と思った)ものが(全て)ほしいわ」という表現は、一見するとバブル期の旺盛な欲望を体現しているようにも見える。しかし別の角度から読むと、「自分が何を欲しいのか明確にはわからない。けれども“自分が欲しいと感じるもの”を欲している」という態度を示しているようにも解釈できる。そこには、他人の目を気にした消費や、社会によって人工的に植え付けられた欲望からの解放という意味が潜んでいる。さらに踏み込めば、私たちは「何が欲しいか」は曖昧であっても、「何が欲しくないか」はよく理解している。だからこそ、自分の感覚に従い「いらないものはいらない」と選び取る主体性が残っているのである。
3 廣瀬涼(2025)「情報・幸福・消費──SNS社会の欲望の三角形-欲望について考える(1)」基礎研レター 2025/09/25 https://www.nli-research.co.jp/report/detail/id=83319?site=nli
例えば小学生の「○○君は持っているのに」「クラスのみんなは買ってもらえるのに」というおねだりは典型的だ。ここでは、他人との境遇の差が欠乏感を生み、そのマイナス(劣等感)を埋めることが目的化している。親がそれを買い与えることは、境遇の差を一時的に解消する点ではポジティブな行為である。しかし、それはあくまで劣等感を埋めただけにすぎず、相対的にフラットな状態に戻ったに過ぎない。必ずしも「より幸せになった」というプラスの充足を意味するわけではないのである。
さて、ここまでを考察すると「(私が)ほしい(と思った)ものが(全て)ほしいわ」という表現は、一見するとバブル期の旺盛な欲望を体現しているようにも見える。しかし別の角度から読むと、「自分が何を欲しいのか明確にはわからない。けれども“自分が欲しいと感じるもの”を欲している」という態度を示しているようにも解釈できる。そこには、他人の目を気にした消費や、社会によって人工的に植え付けられた欲望からの解放という意味が潜んでいる。さらに踏み込めば、私たちは「何が欲しいか」は曖昧であっても、「何が欲しくないか」はよく理解している。だからこそ、自分の感覚に従い「いらないものはいらない」と選び取る主体性が残っているのである。
3 廣瀬涼(2025)「情報・幸福・消費──SNS社会の欲望の三角形-欲望について考える(1)」基礎研レター 2025/09/25 https://www.nli-research.co.jp/report/detail/id=83319?site=nli
5――まとめ
私たちは「消費する自由」を持ちながらも、その自由は常に制約の中にある。何を買うか、何を使うか、どのブランドを選ぶか――それらはすべて消費であり、同時に「選択」である。そして、選んだ以上はその結果に対する「責任」を負わなければならない。 しかし、その「選ぶ対象」自体は、すでに誰かによってスクリーニングされた選択肢の中から提示されたものであり、私たちが自由に選べる範囲は、企業や市場、流通によってあらかじめ設計されている。さらに、私たちの「欲しい」という感情も、過去の経験や他人の消費の結果を見て「羨ましい」と感じたことなど、外部からの影響によって形づくられている。 つまり、他者によって欲求が喚起され、その欲求を満たすために選ぶ手段(=消費対象)もすでにスクリーニングされている。そして、それを消費した瞬間、私たちはその結果に対して個人レベルでも社会レベルでも責任を負うことになる。しかし同時にその責任を引き受けるかどうかを選択すること自体も、また自由である。結局のところ、私たちは「欲望を持つこと」も「選択すること」も、社会や他者によってあらかじめ構築された枠組みの中でしか行えない。完全な自由は存在しないが、その制約の中でどう選ぶかという“自由”だけは、常に私たち自身に委ねられている。
消費社会は、こうした「選ばされる自由」と「選んだ結果を引き受ける責任」という二重構造の上に成り立っている。情報や選択肢が増えるほど、人は自由を得たように錯覚するが、選択の重みと責任は増していく。何を選ぶかは、同時に何を選ばないかを意味し、その判断は個人の価値観だけでなく、社会や環境にも影響を及ぼす。だからこそ、私たちは「欲しいもの」を探す前に、「いらないもの」を見極める必要がある。与えられた選択肢の中で最適を選ぶだけではなく、自らの基準で「選ばない自由」を取り戻すこと。――それが、消費社会に生きる私たちにできる主体的な選択であり、責任ある消費の第一歩なのだ。
消費社会は、こうした「選ばされる自由」と「選んだ結果を引き受ける責任」という二重構造の上に成り立っている。情報や選択肢が増えるほど、人は自由を得たように錯覚するが、選択の重みと責任は増していく。何を選ぶかは、同時に何を選ばないかを意味し、その判断は個人の価値観だけでなく、社会や環境にも影響を及ぼす。だからこそ、私たちは「欲しいもの」を探す前に、「いらないもの」を見極める必要がある。与えられた選択肢の中で最適を選ぶだけではなく、自らの基準で「選ばない自由」を取り戻すこと。――それが、消費社会に生きる私たちにできる主体的な選択であり、責任ある消費の第一歩なのだ。
(2025年10月21日「基礎研レター」)

03-3512-1776
経歴
- 【経歴】
2019年 大学院博士課程を経て、
ニッセイ基礎研究所入社
・公益社団法人日本マーケティング協会 第17回マーケティング大賞 選考委員
・令和6年度 東京都生活文化スポーツ局都民安全推進部若年支援課広報関連審査委員
【加入団体等】
・経済社会学会
・コンテンツ文化史学会
・余暇ツーリズム学会
・コンテンツ教育学会
・総合観光学会
廣瀬 涼のレポート
日付 | タイトル | 執筆者 | 媒体 |
---|---|---|---|
2025/10/21 | 選択と責任──消費社会の二重構造(2)-欲望について考える(3) | 廣瀬 涼 | 基礎研レター |
2025/10/17 | 選択と責任──消費社会の二重構造(1)-欲望について考える(2) | 廣瀬 涼 | 基礎研レター |
2025/09/25 | 情報・幸福・消費──SNS社会の欲望の三角形-欲望について考える(1) | 廣瀬 涼 | 基礎研レター |
2025/09/12 | 「イマーシブ」の消費文化論-今日もまたエンタメの話でも。(第7話) | 廣瀬 涼 | 基礎研レター |
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今週のレポート・コラムまとめ【10/14-10/20発行分】
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【選択と責任──消費社会の二重構造(2)-欲望について考える(3)】【シンクタンク】ニッセイ基礎研究所は、保険・年金・社会保障、経済・金融・不動産、暮らし・高齢社会、経営・ビジネスなどの各専門領域の研究員を抱え、様々な情報提供を行っています。
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