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- ユーゴスラビアの悲劇
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東西を遮断していた壁が壊れ、共産主義の圧政から民衆は開放され、超大国間の対立のない平和な時代が来るものと期待されていた。しかしながら、ベルリンの壁が壊れた時に抱いたこのような期待は空しく裏切られ、抑圧から開放された民族主義の新たな炎が燃え盛り、世界はこれにどう対処すべきか有効な手段のないまま困惑している。皮肉な見方をすれば、二十一世紀は民族対立の世紀になるかもしれぬ状況である。そもそも世界には7千を超える民族があるといわれており、これらの小民族がささいな違いを盾にして、それぞれ独立を勝ち取ろうとするようなことになれば、果てしない葛藤の世界と化す恐れもあることは否めない。
第一次大戦後ウィルソンによって唱えられた民族自決の考え方は、ここにきて一段とその勢いを増している。又、長い間国際関係の基本原則となっている内政不干渉という考え方も立ちはだかり、いまやいかなる大国、あるいはCSCE(全欧安保協力会議)とかECといった善意の国家連合をもってしても民族対立による内紛を平和裡に解決することが至難になっているようである。
バルト三国の独立はソ連邦崩壊と時を同じくしたので、とにもかくにもその独立は達成された。三国内に取り残されたロシア人の権益をどのように保護するかの帰趨によっては内戦状態の発生も危惧されているが、幸い双方の自重によって流血の惨をみることなく小康状態を保っている。一方、ユーゴスラビア連邦を構成していた民族による連邦解体の過程では、憂慮されたとおり悲惨な状況を呈している。スロベニアについては他民族の混在が少なかった為に比較的すんなりと独立が実現したが、クロアチアではセルビア人の居住地区の帰属をめぐって激しい部族間の戦闘となった。また、ECによるクロアチアの独立承認にあたっては古くから利害関係の深いドイツが独走したとしてEC内でも強く非難する声が起きた。そしてこの部族間対立はボスニア・ヘルツェゴビナにおいて極点に達し、あくまでも大セルピア主義によるセルビア人の糾合合体を唱えるセルビアは国際世論の非難にさらされながらも主張を肯んじない。ECや国連による紛争収拾策は殆ど実効をあげられず、流血状態は続いている。セルビアの歴史を振り返れば、セルビア人が父祖の地として大セルビアの実現を望むことは、日本が北方領土の返還を求める考え方と類似しないことはない。つまり、セルビアの主張についてもそれなりの歴史的根拠があることを認めねばならないであろう。こうした事情がイギリス、ドイツ、フランスその他の国々のユーゴ紛争に対する感情的受け止め方に微妙な差を生じさせているのである。
いずれにしても一昨年までは一つの国家を形成していたユーゴスラビア連邦の国民は消失し、セルピア人、クロアチア人、スロベニア人あるいはカトリック、東方正教、イスラム教というような民族と宗教の混在した部族意識の対立を抑える有効な手段が全く見つかっていないというのが現状である。われわれ日本人にとっては血で血を洗う部族間闘争とか、国家解体に伴う紛争は理解を超えるものであるが、現代社会がユーゴのこの悲劇を速やかにかつ平和裡に終結することができないとなれば、それは旧ソ連邦の解体の過程でも、あるいはイラクをめぐる部族と宗教の対立においても同様の混乱が繰り返されることも予想される。
民族問題の難しさというのは、ヨーロッパに起きていること、中東で起きていること、あるいは南アジアで起きていることとの間に共通性がなく、従ってその対応についてもケース・パイ・ケースでやらざるを得ず、また、その背景も歴史的なしがらみや愛憎のからみがあって一つ一つの解決に膨大なエネルギーを必要とすることである。
過日、国連難民高等弁務宮の緒方貞子さんが新聞に語っていたところによれば、「民族対立によって世界中で1800万人に及ぶ難民が発生する可能性がある。」としていた。部族間対立による難民の発生に関する対策としては、その地域の政治的安定、民主的政治体制の樹立が基本であるが、更にはそのような対立を生み出す貧困の処理も極めて重要である。しかしながら、このように世界中の多くの地域で同時発生しつつある民族対立とそれを拡大した国家間の対立について、今は何ら有効な解決策を見出せないまま緊張の度を深めている。加えてアメリカに見られる如く、異なる民族がアメリカ人として生まれ変わる“民族のるつぼ”といわれた国においてさえ、同化しない集団や社会生活から落伍する集団の発生が顕著となり、民族の融和と憲法のもとにアメリカ人に生まれ変わるといった19世紀的理想主義の考え方も衰え、先般のロス暴動のような問題が大きくのしかかってきている。
誰もが自分の生まれ育った習慣や言語、仲間にひかれるのは自然なことであるが、同時に世界は交通通信機関の発展と世界経済の国際化・相互依存によって一つになろうとしている。この統合と分化という相反する動きをこれからの時代、どのように解決していくか、われわれに課せられた大きな平和の課題であろう。
(1992年09月01日「調査月報」)
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