2|予防重視の狙いと矛盾
そもそも、予防重視の傾向とは制度創設時の議論と関係する。例えば、介護保険制度の創設に至った1994年12月の高齢者介護・自立支援システム研究会報告書では、制度の理念の一つとして、「予防重視の考え方は、介護サービスの提供においても貫かれる必要がある」という考え方が強調されていた。さらに、制度創設時には保険料を負担するだけで給付を受けられない「保険あってサービスなし」の状態が政治的に懸念されたことで、介護保険の給付対象は広げられた。実際、厚生労働省OBのオーラルヒストリーでは、「『空くじなしにしろ』という政治的な要請に応えて、『要支援』をつくることになった」とのコメントが残されている
20。さらに要支援者向け給付に関しては、十分に整理されないまま、要介護1~5の人とほぼ同じ内容となった。
その後、制度創設後に初めて大規模な改正となった2006年度改正では、要介護度の中・重度の人に限定するという案も考えられたようだが、「積極的に軽い時に対応して、重度にしないという予防のほうに行く」という予防重視の選択肢が選ばれた
21。その結果、要支援を1区分から2区分に細分化するとともに、要支援・要介護状態になる恐れがある「特定高齢者」を対象とした介護予防事業がスタートしたものの、参加者が振るわなかった。
そこで、2015年度改正の結果、「介護予防・日常生活支援総合事業」(総合事業)が創設された。これは要支援者を対象とした訪問介護とデイサービスを介護予防事業と一体化するとともに、市町村の裁量で基準や報酬を変えられるようにすることで、住民やNPOなど多様な参加者の参画を促すことが企図された。さらに2018年度の制度改正では、要介護認定率の引き下げに成功したとされる埼玉県和光市や大分県の事例を参考にしつつ、市町村主導による要介護状態の維持・改善を促す「保険者機能強化推進交付金」が創設された
22。このほか、同じ時期の2018年度報酬改定では、身体的な自立支援を目指す観点に立ち、先に触れたADL等維持加算なども創設された。
つまり、軽度者向け給付を中心に、介護予防の強化は以前から焦点となっており、試行錯誤が続いていることになる。こうした経緯を踏まえつつ、「2つの不足」に伴う制約条件を考慮すると、思い切った財源確保、あるいは給付抑制に取り組まない限り、軽度者を中心に予防を強化していく流れは今後も避けられないと考えられる。
その典型例として、今回の改定では科学的介護の本格化とADL等維持加算の拡充が特筆される。まず、科学的介護に関しては、政府の「未来投資会議」(当時)で議論が始まった際に「良くなるための介護のケア内容のデータがなく科学的分析がなされていない」と説明されていた経緯を踏まえると、予防重視の一環であることは明らかである。さらに、ADL等維持加算についても加算額の大幅引き上げや要件の撤廃・緩和など本格実施に舵が切られており、予防重視の傾向が一層、強まったと解釈できる。
しかし、これは被保険者から見ると、保険料拠出の対価として給付を受け取れる権利性が失われる側面を持つ。つまり、被保険者から見ると、「要介護状態になったらサービスを受けられる前提で保険料を支払っていたのに、給付を受け取るような身体・心身状態になっても、予防を求められる」という危険性である。例えば、先に触れた総合事業に関しては、軽度者向け給付の選択肢を奪う意味合いを持っており、制度創設に関わった厚生労働省OBからは「保険給付の対象範囲を縮小したのは社会保険制度としての裏切りだ」という手厳しい意見も聞かれる
23。
このため、予防強化の流れを一層、強化するのであれば、予防に振り向ける財源に関しては、反対給付を前提としない租税を用いるなど、本来であれば税制改革を視野に入れた議論が必要になると思われるが、そうした機運は現在の政府や国会では見受けられない。一方で今後、人材不足が深刻化し、全体として予防重視の傾向が進めば、権利性を巡る矛盾は一層、大きくなることは避けられない。
さらに全ての要介護者の状態が維持・改善するとは限らない点にも留意する必要がある。確かに要支援の軽度者に関しては、短期的かつ集中的なリハビリテーションを通じて、身体状態が維持・改善する可能性があり、2019年度の『国民生活基礎調査』を見ると、要介護・要支援状態が半年間で改善した人は8.0%に上る。
しかし、それでも全ての人が改善することは考えにくく、個人差があるとはいえ、加齢に伴って身体・認知機能が下がって行くのは避けられない。むしろ、予防を重視し過ぎると、その反動として要介護になった人が「予防できなかった人」と周囲から見なされるようになり、介護サービスを使いにくくなる危険性にも留意する必要がある。
さらに今回の改定を見ていると、医療機関向けの診療報酬の改定論議と重なる面を見て取れる。つまり、診療報酬のように極端な制度の複雑化が進んでいる点、さらにデータを重視し過ぎる弊害という2つの点である。以下、診療報酬と介護報酬を対比させつつ、この2つの点を論じる、
20 中村秀一(2019)『平成の社会保障』社会保険出版社p314。
21 同上pp314-315。
22 その後、2020年度予算では介護予防に取り組む市町村を支援する「保険者努力支援制度」が創設された。
23 日本経済新聞社編(2018)『2030年からの警告 社会保障砂上の安心網』日本経済新聞出版p127、堤修三氏インタビュー。