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一般要件
次に一般要件について概観していきたい。
一般要件は、上述したシナリオとは関係なく、デジタルユーロが導入された場合に、ユーロシステムの業務やバランスシートにどのような影響が生じるかを考察することで要件を導出している。
「R8:デジタルユーロ流通量の制御能力」は、「銀行部門、金融政策、金融システムの安定性への影響」を考察することで導かれている。この「R8:デジタルユーロ流通量の制御能力」については、中央銀行の役割の根幹にも関わることであることから、やや詳細に分析されているように見受けられる。具体的にはデジタルユーロの発行による、金融政策の伝達に影響をおよぼす可能性、銀行の仲介機能や無リスク金利といった金融安定に影響をおよぼす可能性を分析している。
例えば、預金者が民間銀行預金からデジタルユーロ(つまり中央銀行の負債)に資産をシフトしてしまう可能性がある。これは銀行の資金調達コストの上昇を通じて、貸出金利の上昇や与信量の減少をもたらし得る。
これらについてもう少し具体的な状況を考えると、以下の通りとなる。
民間銀行は負債(≒民間預金)見合いで資産(安全資産+リスク性資産)を保有している。民間銀行の負債である民間預金が引き出され、CBDCにシフトする場合、次のような状況に直面する。
民間銀行は失われた預金を中央銀行からの借入で賄うことができるが、これは中央銀行から借入をするための、適格担保として認められるような(安全)資産の額に限られる。それ以上のCBDCへのシフトが起きる場合、市場で資金調達を行う((1))、もしくは民間預金の魅力を高めて
40CBDCへのシフトが起きないようにする((2))必要が生じる。(1)市場調達も、(2)民間預金の魅力を高めることも、(シフトが起きなかった)これまでの民間預金のコストに比べると調達コストが上昇することになる
41。
なお、民間銀行の資産構成をリスク性資産から安全資産へシフトさせれば((3))、中央銀行からの借入を増やすことができる、ただしこの場合は、担保需要つまり安全資産需要が増加することで、金利に影響を及ぼすという別の効果(金利低下)が現れることになる
42。
また、(1)(3)のようにCBDCのシフトを止めない場合は、中央銀行の経済への役割とリスクエクスポージャーが拡大することになる
43。
こうした状況は、金融の安定性にも影響を及ぼす。民間銀行の資金調達コストの上昇が、リスクの高い資産を保有する動機になる可能性がある。
また、民間銀行が預金という顧客情報を失うことが、リスク評価能力に影響を及ぼす可能性もある。これは例えば次のような状況を指す。民間銀行が貸出を行っている取引先が、その民間銀行の(民間預金)口座を日々の取引に用いているのであれば、日々の資金決済フローの情報を民間銀行は得ることができる。取引先が民間預金を決済に使わなくなってしまう(CBDCにシフトする)と、これらの情報は得られなくなる。銀行が取引先への融資の増加、延長、停止といった与信判断をする際に、こうした情報を得られないことは(情報を得られる状態と比べて)リスク評価を困難にさせるといった状況である。
こうした状況はいずれも銀行のバランスシートのリスクを増加させ、金融の安定性に影響が及ぶ。
(金融機関でない)投資家が安全資産をデジタルユーロにシフトすることも、無リスク金利に影響を及ぼす可能性がある。加えて、デジタルユーロに対する需要の変動が大きくなれば、流動性予測、短期市場金利の誘導が困難になる可能性もある
44と指摘している。
また、民間預金から現金を引き出すよりも、デジタルユーロに交換することが容易であれば、上記デジタルユーロへのシフトが急激におきる、いわゆる「デジタル取り付け」の可能性も否定できない。急激なデジタルへの資金逃避は上記で見た悪影響が深刻化することが想定されるほか、それ自体が金融システムの安定性への懸念となり得る。
こうした金融政策の伝達や金融システムの安定性に与える可能性から、報告書ではデジタルユーロの設計は慎重に評価されるべきだと強調している。特に個人や企業に対して、デジタルユーロを直接保有することを許すか仲介者を通すのか、付利を認めるか否か、個人利用の保有上限を設定するか否かなどはこうした金融政策の伝達、金融システムの安定性の観点からも考慮すべき点としている。
特にデジタルユーロへの付利については、基本的に現金はゼロ金利であるが、現金という現物を保有・保管することには費用が発生するため、現金保有には実質的な負担(マイナス金利的な効果)が発生している点を指摘する。つまり、現状では、大規模な現金への移行を起こさずに民間預金金利をマイナスにできる可能性がある(民間預金金利が少しマイナスとなっても、多額の現金を現物で保管するよりは相対的に民間預金として保管しておくほうがコスト安とみなされる可能性がある)。一方で、デジタルユーロは現物でないため、現金よりも保有・保管費用が安いと見られる。したがって、民間預金金利をマイナスすると、デジタルユーロへの大規模な資金逃避が発生してしまう可能性が高い(ただし、デジタルユーロがゼロ金利もしくはプラス金利の場合)。こうした場合、階層的な付利の導入(デジタルユーロの保有量によって異なる付利を適用する)や、保有・取引に利用できるデジタルユーロの金額に制限を設けることで、「銀行部門、金融政策、金融システムの安定性への影響」を軽減できる可能性がある。
一方で、金融政策の伝達や金融システムの安定性の観点からは、デジタルユーロの発行によって、デジタルユーロへの資金流入が過剰に増えることは望ましいとは言えないが、厳しい保有制限やマイナス金利などのペナルティを課すとデジタルユーロの決済手段としての魅力を落とし、競争力を低下させてしまう。最終的には、デジタルユーロへの固有の制限(保有制限や付利など)は、デジタルユーロと現金(などほかのユーロ)が等価交換とならない非公式市場を生み出す可能性もあり、実態的に並行通貨のように扱われてしまう危険性がある。
このように、様々なトレードオフの関係があり、金融政策の伝達や金融システムの安定性への影響を考えて設計のバランスを取ることは相当難しいと思われる。
長くなったが、こうしたリスクを考慮した上で、「デジタルユーロは魅力的な決済手段だが、投資商品として利用され(例えば預金からの)大規模なシフトといったリスクを避けるよう設計されるべき」という「R8:デジタルユーロ流通量の制御能力」の要件が導かれている。
続いて「R9:市場参加者との協調」および「R10:規制遵守」は、「風評などのリスク」から導出されている。具体的には、デジタルユーロの発行が中央銀行の評判に影響を与えるケースとして、以下の例が示されている。
「明確な利益が見込めないにも関わらず、コストがかかる(CBDCの)プロジェクトに着手したと認識されること」「当初設定した導入予定日から遅延した場合」「ITインフラの貧弱さが露呈した場合(サイバー攻撃も含む)」「民間の決済関連規制の外側で利用され、犯罪行為に利用される可能性がある場合(マネーロンダリング、テロ資金供与を含む)」「ユーロ圏加盟国で、同質のサービスが提供できない場合」「法的リスクとして、デジタルユーロ発行の法的根拠に疑義が生じる場合」である。
このうち、前半については、通常のシステム開発と同様のリスクで「R9:市場参加者との協調」、後半については規制として導入すべきもので「R10:規制遵守」の要件としている。
「R11:ユーロシステムの目標達成の観点からの安全性・効率性」「R12:ユーロ圏全域での利用しやすさ」は、「決済分野での安全性・効率性への影響」から導出される。
デジタルユーロの発行は(もしくは発行されるという情報が発表されたり漏洩されたりすると)民間銀行や、決済サービス事業者は、それに適合するために既存のサービスを変更しなければならない可能性がある。それは好ましくないので、民間事業者がデジタルユーロの設計内容に近づけるのではなく、ユーロシステムはすでに実証・導入されているサービスを考慮した上で、そうした民間の事業を阻害することを避ける必要があるという要件である。
これは、CBDC自身に必要な機能については、デジタルユーロの設計に含めるべきだし、追加的なサービス部分については、その提供をきちんと監督された民間のサービス仲介者に委ねるべきとも言える。なお、必要な要件としてECBは具体的に、「有効性(ベースマネーの制御、確実に決済できること、インフラの安全性、監督管理)」「効率性」「使いやすさ(ITサービス、顧客サポート、カスタマイズ性、技術革新)」をあげ、ユーロシステムはこれらを確保する範囲は超えてはいけないとしている。ただし、ユーロシステムは、最終利用者に提供されるサービスが公共の利益に合致していることも保証しなければならない。つまり、民間のサービス仲介者の提供するサービスでも、ユーロシステムが最終利用の責任を負う必要がある。
また、決済において「金融排除(financial exclusion)
45」の発生を防止するためにも、ユーロ紙幣や硬貨は流通を続ける必要があると言及している。
なおデジタルユーロは、民間事業の阻害するのではなく、むしろ民間の既存サービスを活用・強化するかもしれない点にも触れている。こうした例として、ECBはSEPA(Single Euro Payment Area:単一ユーロ決済圏)
46のような、汎欧州でのバックエンド
47のスキーム導入で安全性・効率性・ユーロ圏統合に向けた進展が起きたケースを挙げている。デジタルユーロは、このフロントエンドに相当し、理想的にはデジタルユーロが導入される前に、現金利用を補完する標準化され相互運用可能な決済サービスが開発されていることが望ましいとしている。
こうした点が、「R11:ユーロシステムの目標達成の観点からの安全性・効率性」「R12:ユーロ圏全域での利用しやすさ」に含まれている。
「R13:非ユーロ圏居住者の条件付き利用」は「域外でのデジタルユーロの使用についての影響」を考察して導いている。
具体的にはユーロ圏以外の居住者のデジタルユーロへのシフトは、(すでにみたように)ユーロシステムのバランスシートの規模やリスク増大をもたらす。加えて、ユーロ高による、ユーロ圏企業の競争力低下をもたらす可能性もある。
一方、国際的なデジタルユーロが利用は金融政策の波及効果を強化する可能性がある
48。さらに、経済・通貨が脆弱な国でデジタルの「ユーロ化」、つまり、その国でのデジタルユーロの通貨としての流通を促す可能性がある。これらは、一見するとメリットであるが、これらは当該国における金融政策の主権を損なうことにつながり、政治的な緊張を助長するといった観点から見ると、政治的リスクを伴うと言える。
つまり、ユーロ圏外でデジタルユーロが広く利用されると、資本移動や為替相場に影響を及ぼし、金融政策の伝達経路や姿勢に潜在的な波及効果をもたらす可能性がある。こうした効果は非ユーロ圏の決済システムの規格や、(とりわけ非ユーロ圏居住者への)付利の有無、保有制限といったデジタルユーロの特性に依存するため、これらの条件を考慮する必要がある。一方、クロスボーダー決済が可能な多国間CBDCという要素は、リスクを軽減する可能性がある。
また、デジタルユーロの越境使用のリスクとして、国際的な犯罪活動を助長する可能性も挙げられる。越境利用ができるという設計が、テロ資金供与やマネーロンダリング、その他の犯罪にとって魅力的な手段と見られる可能性がある。
「R13:非ユーロ圏居住者の条件付き利用」はこれらの内容を含んだものになっている。
最後の「R14:サイバー脅威・攻撃への強靭性」は、単純にデジタル化された通貨のため、サイバーリスクがあるということから導かれる。デジタルユーロはサイバー脅威・攻撃といった様々な状況下において、情報を完全性、機密性を保持する必要があるとの要件になっている。
以上が一般要件であるが、ECBはこれらに加えて、ECBでは「中央銀行の収益性、リスクエクスポージャー」にも触れ、CBDCを発行する中央銀行としてのリスク管理体制について述べている。
「中央銀行の収益性・保有リスク」では、中央銀行の収益、いわゆる通貨発行益
49を考察している。まず、上述したように、既存の現金がデジタルユーロにシフトする以上に、デジタルユーロへの需要が高まった場合、あるいは非ユーロ圏居住者によるデジタルユーロへの需要が急増した場合には、直接的に中央銀行の負債が増加する。同時に中央銀行は、負債の増加に見合う資産を保有する必要があるが、民間銀行において民間預金からデジタルユーロへのシフトが起きている状況であれば、中央銀行は民間銀行から担保を受け入れ、(場合によっては長期の)貸付金を増やさなければならない可能性がある(「R8:デジタルユーロ流通量の制御能力」で検討した状況)。これは、資産側の収益に影響を及ぼす。加えて、負債側のデジタルユーロに付利がされていれば、負債側も既存の現金とは異なる費用をもたらす。これらはいずれも中央銀行のバランスシートや収益性を変化させている。
また、中央銀行は決済サービスそれ自体へのリスクを抱える可能性がある。例えば、デジタルユーロのインフラが不具合を起こして、利用者が損失を被った場合に、その責任を中央銀行が負わなければならない可能性がある。利用者に悪意・過失がないままに不正送金がされた場合はその補償を民間サービス事業者ではなく、中央銀行が講じなければならない可能性もある。
また、これは既存の現金と同じだが、デジタルユーロの発行に費用が発生する点もユーロシステムの収益に影響する。現金と同様に、デジタルユーロの利用者が無料で利用できるとすれば、デジタルユーロの発行コストは中央銀行が負担することになる。民間の決済サービス事業者と協業する場合には、この民間事業者に手数料を課すことも選択肢としてあるが、実際に課すことが妥当であるかは不透明と言える。むしろ現段階ではデジタルユーロ利用者が費用を負担することのないように、中央銀行が民間事業者に対して補助金を支給しなければいけないという可能性も否定できない。
最後に、中央銀行自身は、金融仲介機能としての役割を果たすことを目指していないが、最終的に果たさざるを得ない、つまり流動性の低い資産への投資を増やさざるを得なくなることも否定できない
50。この場合は、信用リスクや市場リスクを中央銀行が負担しなければならなくなる。