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シナリオ固有要件
次にシナリオ固有要件について概観していきたい。
シナリオ固有要件は、今後デジタルユーロの発行が促進される状況を踏まえて導出されたものであるが、このシナリオは2019年12月にEU理事会の専門理事会である経済・財務相理事会(ECOFIN:Economic and Financial Affairs Council)において、ECBが言及した「CBDCについて分析し、欧州市民のために新技術の利便性を探求、将来必要が生じた場合に行動できるよう準備をする」とした事項を明文化したものと言える。なお、ECBはシナリオ固有要件のうち、R1~R5をECBの中核的機能と関連する部分、R6・R7は(物価安定の目的を侵害しない範囲での)EUの一般的な経済政策に関連する部分としている。以下でこれらの要件についてそれぞれ見ていきたい。
まず、「R1:デジタル化による効率向上」は「欧州経済がデジタル化し、自治を強めていく」シナリオを想定している。このシナリオのもとでは、金融部門、ひいては経済全体のデジタル化を支援する役割を果たすようなCBDCの発行がユーロシステムに求められる。ECBにはデジタル化支援の役割が求められ、デジタルユーロはオープンで標準化されており、柔軟性や拡張性に優れているといったことが重要な要素となる。
「R2:現金同様の機能」は「現金での決済(支払い)が急激に減っていく」シナリオを想定している。本論でも述べたが、民間による(電子)決済サービスの利用が増加し、現金決済の利用減少が進み過ぎると、現金決済サービスの十分な提供がされなくなるという恐れがある。ユーロ圏の場合は、(日本と同様に)店頭決済の大部分において依然として現金が利用されているものの
35、電子決済の割合も増えており、また国によって状況は大きく異なる。加えて、新型コロナウイルスの感染拡大により、非接触志向から電子化が進む可能性もECBは指摘している。このシナリオの場合は、デジタルユーロが現金同様の特徴を備えていること、「誰もがいつでも、どこでも、安全、確実に、そして、安価に利用できる」
36ことが求められる
37。
「R3:競争力のある機能」は「ユーロ建ての『通貨』(現金、民間預金、電子マネー)とは異なる『通貨』
38が価値貯蔵や交換手段として信用される」シナリオを想定している。いわば「ライバル通貨」がユーロにとって代わってしまうシナリオである。ライバルとしては、欧州でも利用できる他国のCBDC、欧州の監督下にない民間の『通貨』(例えば、Diemといったステーブルコイン)などが挙げられる。ECBはこれらのライバルによって金融政策の伝播が妨害される、金融仲介機能やクロスボーダーでの資本移動が起きるといった影響を懸念し、欧州の金融や経済そして主権を脅かすものと指摘している。外国の中央銀行にしても、民間企業にしても欧州外の「通貨」が(ユーロ圏内で)台頭することを防ぐ手段としてのデジタルユーロの発行ということになる。
「R4:金融政策の選択肢」は「金融政策の観点から、ユーロシステムがデジタルユーロを利用することが必要となる」シナリオを想定している。つまり、デジタルユーロへの付利を通じてECBが非金融部門の消費や投資行動に直接影響を与えようとするシナリオである。ECB自身はこうした金融政策の伝達経路の強さは明らかではないとしつつも、金融システムにおける非金融機関(いわゆるノンバンク)の役割が拡大しているため、こうした(非金融機関への)直接的な金融政策の伝達手段が確保できることが金融政策の有効性を高めるといった可能性にも言及している。
「R5:バックアップ機能」は「サイバーインシデント、自然災害、パンデミックといった有事において決済サービスが利用できなくなる可能性を緩和しなければならない」シナリオである。上述した「現金での決済(支払い)が急激に減っていく」シナリオと並行する面があるが、デジタル化された決済サービスが普及するにつれて、サイバーセキュリティへのリスクは高まる。カード決済、オンラインバンキング、ATMが止まってしまうようなテールリスクも考えられ、こうしたリスク(が発生した時の悪影響の大きさ)は増していると言える。デジタルユーロは、こうしたリスクを緩和するための非常時の決済手段ということになる。
「R6:国際利用」は、「ユーロシステムの目的から見て、ユーロの国際化が適切となる」シナリオである。このシナリオは、「ライバル通貨」から身を守るためのデジタルユーロの発行とも似ているが、より積極的に海外投資家にユーロを保有してもらう動機と言える。
つまり、他国でCBDCが発行されれば、欧州でのユーロ利用を侵害しなくても、これまでユーロを保有してくれていた海外投資家が他通貨のCBDCに保有資産を切り替える可能性がある
39。CBDCやそれ以外の「通貨のようなもの」が台頭し、海外投資家がそうした保有資産を増やす、そしてそうした他国のCBDCや「通貨のようなもの」を決済手段として用いていく状況では、少なくともユーロもCBDCで提供しなければ、国際化は進まないということになる。
ただし、国際化の方法は、非居住者へのデジタルユーロ保有を可能にするという方法だけではない。他国のCBDCと相互運用可能な設計とし、他通貨のCBDCとスムースに決済できるようにすることで、非居住者が直接デジタルユーロを保有できなくても、国際的役割の強化とクロスボーダー決済の改善につなげられる可能性もあると指摘する。つまり、デジタル化が進んでも、ユーロ決済が魅力的な決済手段であり続ける、ということが重要になる。これは既存のクロスボーダー決済の非効率性の是正にも寄与する視点である。
「R7a:低費用」および「R7b:環境への配慮」は「ユーロシステムが積極的に金融・決済システムのコスト、環境負荷を改善させるよう働きかける」シナリオである。これは、既存の決済インフラのエネルギー効率性が必ずしも良いと限らないことから、低価格かつ環境負荷の軽減を促す改善策としてデジタルユーロを設計・導入するというシナリオである。この場合は、ユーロシステム自身がコスト・環境に配慮するだけでなく、これらを導入・利用する人がコスト削減、環境負荷軽減を目指すようにインセンティブや圧力をかけていくなどの役割も必要となってくる。
35 ユーロ圏における店頭(POS:physical point of sale)もしくは個人間(P2P:person-to-person)の決済では、件数ベースで73%が現金、27%が現金以外の取引、金額ベースでは48%が現金、52%が現金以外となっている。ただし、現金利用が多い国はマルタ(88%、件数ベース)やスペイン(83%)・キプロス(83%)、少ない国はオランダ(34%)やフィンランド(35%)と国によりばらつきがある。詳細はEuropean Central Bank(2020), Study on the payment attitudes of consumers in the euro area (SPACE), December 2020 を参照。
36 木村武(2020)「中央銀行デジタル通貨の役割を根っこから考える」『基礎研レポート』2020-09-28で指摘する現金の特徴。ECBではこれらの特徴に加えて、「efficient(素早く)」という点も挙げている。
37 ただし、ユーロシステムは既存の現金も利用できるようにし(これは合意文書の内容でもある)、既存のユーロではなく、デジタルユーロを利用するのかの判断は利用者(市民)が決めるという立場を取っている。
38 マネーストックの意味での通貨(現金・民間預金)以外にもステーブルコインなど価値貯蔵、交換手段として利用できる「通貨のようなもの」を含むため、括弧を付した「通貨」とした。
39 市場で流通しているユーロ紙幣のうち、30~50%(金額ベース)がユーロ圏外で流通しているとされる。詳細は、Laure Lalouette, Alejandro Zamora-Pérez, Codruta Rusu, Nikolaus Bartzsch, Emmanuelle Politronacci, Martial Delmas, António Rua, Marco Brandi, Martti Naksi(2021), Foreign demand for euro banknote, ECB Occasional Paper Series No 253 / January 2021を参照。