2|審議会での調整難航、与党が主導
その後、議論は厚相の諮問機関、老人保健福祉審議会に移ったが、調整は難航した。市町村が保険者(保険制度の運営者)になることを拒否したほか、財界も現役世代の保険料負担に難色を示したためだ。中でも、市町村は国民健康保険の財政赤字に苦しんでいたため、「第2の国保」になるとの懸念を強く持っていた
5。
結局、1996年4月の老人保健福祉審議会最終報告では、介護保険制度の創設を訴えたものの、▽保険者の主体を国とするか、市町村とするか、▽保険料の納付開始年齢を40歳以上とするか、20歳以上とするか、▽若年者の保険料負担に関して、事業主負担を求めるか否か、▽家族介護に対して現金を支給するか否か――などの点について「両論併記」「多論並列」となり、議論の舞台は与党に移った。
当時の与党は自民党、社会党、新党さきがけという構成であり、3党が厚生省とともに制度設計の詳細を決めた。例えば、自民党医療問題基本調査会長だった丹羽雄哉元厚相(肩書は当時、以下全て同じ)が1996年3月、介護保険制度に関する「試案」を公表し、この中で市町村主体の独立保険方式の導入や納付開始年齢を40歳以上とする案を示したことが事態打開に貢献した。その後も、政府・与党合意の席から梶山静六官房長官が退席したことで、急きょ与党合意に切り替わったなど紆余曲折もあったが、与党ワーキングチームによる地方公聴会、自治体の意見を踏まえた与党の申し入れなどを経て、法案の内容が固まった。
中でも調整が難航したのが市町村との関係だった。市町村が保険者になることを拒否していたため、(1)保険料の徴収を基礎年金から天引きとすることで、確実な保険料徴収システムを導入する、(2)40~64歳の第2号被保険者の保険料については、医療保険者が医療保険料に上乗せして代行徴収する、(3)給付増や保険料の減収などに備える「財政安定化基金」を都道府県単位に設置することで、税金による保険料軽減や穴埋めは認めない――といった制度を採用することで、市町村の理解を得た。
さらに、論点の一つとなった被保険者の対象年齢に関しても、与党の意見が反映された結果、40歳以上で線引きされた。厚生労働省は40歳以上とした理由について、(1)被保険者本人自身が老化に起因する疾病になり、介護が必要となる可能性が高くなる、(2)被保険者の親が高齢となり、介護が必要となる状態になる可能性が高まる――の2点を挙げているが、実際には与党との調整プロセスで決まった経緯がある。
当初、厚生省は20歳などの案を想定していたが、事業主負担を求められる財界が反対していたほか、衆議院議員の任期満了(1997年7月)を控えて与党も神経質となっていた。さらに、20歳以上とした場合、「保険料拠出の見返りとしての反対給付をどう考えるか」という点が課題となり、自民党から物言いが付き、「40歳以上」で妥結した。当時の厚生省幹部が自民党社労族の有力議員だった伊吹文明氏(後に衆院議長、財務相など)に対し、納付開始年齢を「20歳以上」とする案を説明した際、以下のようなやり取りがあったという
6。
当時、20歳以上を被保険者とする介護保険制度案について説明に伺ったことがありました。(筆者注:伊吹氏から)「保険は負担と給付の関係が明確だと君は言っただろう。直接的な受益と結びつかないのは税だ。保険方式で被保険者は20歳からとしても、ほとんど受益のない20歳の若者の保険料負担は本質的に税と同じである(略)」というご指摘でした。(略)時間的にも切迫したころでしたから、何とか制度案を固めなければ行けません。40歳から、というアイデアは以前からありましたが、ハッと思いついて丹羽(筆者注:雄哉)代議士に伊吹さんからあったご異論の報告方々相談に伺いました。(略)「先生、40歳から被保険者というアイデアはどうですか」と。「うん、いいだろう」と(筆者注:丹羽氏に)納得いただき、事務局に戻って山崎(筆者注:史郎)君に「40歳でいくぞ」と。山崎君は「えっ?えっ?」と驚いて、そのことを後々突然40歳になったと言っておりました。
この出来事が何年頃なのかハッキリしないが、「40歳以上」という案を示した1996年3月の丹羽試案が出る前であろう。こうした経緯を踏まえると、制度の立案に際しては与党が主導した面が大きいと言える。
このほか、国会審議でも法案が修正された。具体的には、結党間もない民主党
7の修正意見を反映する形で、「市町村が介護保険事業計画を策定する際、被保険者である住民の意見を反映するよう市町村に求める」という趣旨の条文が衆議院の審議で追加された。さらに、参議院の審議でも国が講ずべき措置として、サービス提供体制の確保を明記する修正がなされた。当時、保険料だけを取ってサービスが提供されない「保険あってサービスなし」の状態が懸念されており、サービス提供体制の確保が明記された。こうしたプロセスに際しては、介護労働に従事している女性の負担を軽減する「介護の社会化」を主張する市民団体や女性団体の意見も反映された。
こうして見ると、介護保険制度の創設プロセスに際しては、当時の連立与党を構成した自民、社会、さきがけの3党と厚生省が連携しつつ、利害関係者の意見を聞きつつ、合意形成を丁寧に積み重ねていたと考えられる。
その後、連立政権の枠組みが「自民・自由→自民・自由・公明→自民・公明・保守」と目まぐるしく入れ替わる中で、自民党の亀井静香政調会長が「子どもが親の面倒を見るという美風を損なわないような配慮が必要だ」と述べるなど、制度の見直しや延期を促す動きが続出した。さらに経済情勢が悪化したことも重なり、高齢者の介護保険料徴収を減免する特別対策も実施された
8が、制度自体は2000年4月にスタートした。
では、こうして難産の末に誕生した介護保険制度の特色として、どんなことが挙げられるのだろうか。ここでは、上記の制度創設の説明で触れた部分を中心に、(1)契約制度の採用、(2)民間活力の活用、(3)地方分権の重視、④費用抑制のメカニズムの採用――の4点を説明する。
5 国民健康保険は2018年度に都道府県化された。最近の動向や歴史については、2018年4月掲載の拙稿「国保の都道府県化で何が変わるのか」(全3回)を参照。リンク先は第1回。
6 菅沼ほか前掲書p351。和田勝氏に対するオーラルヒストリー。
7 自民党との連立政権を構成していた間、介護保険制度の導入に前向きだった社会党、新党さきがけの議員が数多く参加していたことも影響した。
8 特別対策を基に、(1)高齢者の介護保険料を2000年4~9月の半年間は徴収しない、(2)2000年10月以降も1年間は高齢者の保険料を半減する――という減免措置が実施された。