4――フィリップス曲線の実質賃金の低下による景気拡大
フィリップス曲線は、Phillips(1958)によって、賃金上昇率と失業率の間に統計的に負の相関を見出したものである。名目変数である賃金上昇と実質変数である失業率の間の安定的な関係を発見したことは、新古典派的な二分法を否定した点での意義も大きい。なおBill Phillips(1914-1975)は、ニュージーランド人であるが、第2次世界大戦中、英国軍に従軍し日本軍の捕虜となった。電気工であった彼は、映画「戦場のメリークリスマス」のモデルとなったとされる
10。後年、フィリップス曲線は、賃金上昇をインフレに読み替えて(物価版フィリップス曲線)、ケインジアンによってインフレにより失業を減少させることが主張されたが、Phillips(1958)では、観察データからは賃金上昇率に影響を与えたのは失業率であり、インフレ率は生産性上昇で安定的に相殺され賃金上昇率への影響はみられないと指摘し、インフレ率と失業率の関係には否定的であった。一方、輸入物価の上昇等が賃金上昇率と失業率の関係を不安定化させることも指摘している。
フィリップス曲線にミクロ経済学的な基礎を与えたのはFriedman(1968)以下の新古典派である。その議論によれば、インフレ率が失業率を低下させる(すなわち、景気拡大をもたらす)のは、インフレ率(Outputである製品価格の上昇)が賃金上昇率(Inputである賃金コスト上昇)に先行し、Output/Inputの相対価格(交易条件)が有利化するためであるとされる。すなわち巷間言われる、実質賃金の上昇が景気の拡大を招くのではなくそれとは反対に実質賃金の低下が景気拡大をもたらすとされる。
新古典派の議論で、賃金上昇がインフレ率に遅行(すなわち実質賃金が低下)するのは、賃金交渉で労働者側が先行きのインフレ率を先読みできないとしたためである。インフレが加速するとき、賃金上昇が遅行すれば、交易条件の改善により景気が拡大しインフレも加速する。一方労働者側が先読みし、賃金上昇を要求し、インフレ率と賃金上昇が同調し、一致(すなわち実質賃金は一定)すれば、交易条件も不変で景気の拡大も生じない。この景気の水準が、長期的に安定な自然失業率となる。
以上の議論から現在の政策をめぐる好循環間の議論に二つの疑問が湧いてくる。
第一に、インフレ率が景気を拡大させるのは期待の調整ができない短期的な状態であり、しかも実質賃金は低下する。持続的な賃金上昇をもたらすのは、自然失業率の低下が必要となるがこれを導くのは生産性の上昇(または収益率の上昇)でありインフレではない。インフレ率の上昇によっては持続的な賃金上昇をもたらす自然失業率の低下は導かれない。
第二に、期待の問題である。新古典派の議論によれば、労働者が賃金上昇を将来のインフレ率と同調させ、一致させる合理的期待を持てば、短期的にもインフレによる景気拡大は生じない。ただ実際には、人々の期待は将来のインフレ率を徐々に織り込む適合的期待に近い。ただし、人々がどの程度将来を織り込むのかは、状況次第で安定しない。これは、経済モデルでは適合的期待の係数(パラメータ)が安定(固定)していないことを意味する。このため、人々の期待は適合的と言っても、不安定に変動する係数に依存して政策を行うことは適当とならない。合理的期待理論が経済政策理論に及ぼした重要な含意は、従来の裁量的な政策の無効性よりは、従来の政策が不安定なパラメータに基づいて行われていることから生じる政策効果の不安定性であろう
11。政策運営において期待の問題は極めて重要だが、一方期待は安定せずそれを政策的にコントロールするのは難しい
12。
また、現在の標準的なマクロ理論であるニュー・ケインジアン・モデルでもインフレが景気拡大をもたらすというフィリップス曲線がマクロの供給関数として採用されている。この背景として、短期的には価格は部分的には固定的であるという価格の粘着性が仮定されている。しかしわが国の最近の好循環論では、インフレが価格体系の柔軟性をもたらし、相対価格の変化により資源配分の最適化がはたらき景気拡大をもたらすと想定されている。マクロ理論では価格の硬直性による景気拡大が想定されているのに政策論では柔軟性による景気拡大が想定されているのは経済学としては整合的でない。また従来の経済学の議論ではインフレは相対価格の変化にノイズを生みマイナスとされたが、好循環論ではインフレはむしろ相対変化を活発化するプラス面が強調されている。これも理論的には整合的でない。こうした点は、マクロ経済理論の検討されるべき問題として浮かび上がるのではないだろうか。