1|今回のトリプル改定の調整が難航した理由
最後に、今回のトリプル改定の調整が難航した理由を改めて総括しつつ、報酬改定の意思決定を巡る論点として、物価上昇への対応を取り上げる。
今回、例年よりも調整が難航した理由として、(1)物価上昇で潮目が変わった、(2)次元の異なる少子化対策が検討される形で、実質的に国民負担を増やさない方針が決まり、帳尻を合わせる必要があった、(3)政局の影響を受けた――という3つの要因が考えられそうだ。
まず、1番目の点については、30年近く続いたデフレから漸く脱却する気配が広がっており、しかも岸田政権が発足した時点で、「『成長』と『分配』の好循環」の一環として、公的価格でコントロールされている医療・介護・福祉職員の給与引き上げが意識されていた
20ことを考えると、物価上昇に合わせる形で診療報酬、介護報酬を引き上げる流れは一定程度、政権発足時に想定されていた状況と言える。
しかし、インフレ下の改定は悩ましい問題をもたらしている。そもそも、賃金引き上げには公費(税金)や保険料の増額を伴うため、財務省や健康保険組合連合会の反発は避けられない。一方、物価や賃金が上がると、収入を公定価格で固定されている医療機関や介護・福祉事業所は逆ザヤ状態となり、経営が厳しくなる。この結果、日医など医療・介護の提供体制サイドが一層、報酬引き上げを訴える展開が想定され、報酬改定を巡る攻防は今まで以上に激しくなる可能性が高い。
実際、診療報酬改定の歴史を少しだけ振り返ると、物価が継続的に上がっていた1960年代~1970年代には、25年間も会長に君臨した武見太郎による主導の下、日医は中医協の審議をボイコットしたり、厚相との交渉を拒否したりして、政治決着が図られる場面が何度も起きた。当時と今では、政治や財政などの状況が違うとはいえ、物価上昇の逆ザヤ状態が広がれば、報酬引き上げを巡る紛争は激化する可能性があり、これは過去30年程度のトレンドとは大きな変化である。
今回、潮目が変わったことを象徴する一幕として、入院時の食費が挙げられる。既に述べた通り、2024年度診療報酬改定では0.06%が上乗せされており、実質的な引き上げは1997年以来となる。具体的には、入院中の患者に対する食費の基準は公定されており、入院時食事療養費(保険給付)と自己負担で構成している。これは1994年10月、1日当たり1,900円でスタートした後、1997年に1,920円に引き上げられた後、30年近く据え置かれていた
21が、物価上昇で医療機関の持ち出しが増えているとして、基準額が引き上げられることになった。この点に見られる通り、デフレ下の改定からトレンドが変わりつつあると言える。
しかし、長らくデフレが続いた結果、物価上昇局面の診療報酬改定を経験した人が政界、官界、業界団体でほとんどいなくなった。しかも、2000年度に発足した介護保険、2013年度に現行制度に移行した障害福祉サービスに関しては、当然にして初めての事態だった。こうした潮目の変化が調整を難航させたと思われる。
さらに、2番目の点として、次元の異なる少子化対策の影響を見逃せない。少子化対策の詳細は(中)で取り上げるが、先に触れた通り、今回の改定に関しては、「物価上昇や賃金への対応」というプラス要因と、「通常ベースの歳出改革」によるマイナスの要素が交錯する中、「次元の異なる少子化対策の財源確保」というマイナスに働く流れも加味され、事態は複雑になった。つまり、「右向け左」と言わんばかりの政治サイドの指示が議論の混乱を招き、調整を難航させた面は否めない。
その上に、3番目の要因として、自民党安倍派の政治資金問題が顕在化したことで、大詰めの局面で官房長官や自民党政調会長の交代が決まる異例の展開になり、調整の難航に拍車が掛かった点も見逃せない。通常の政策形成過程であれば、関係者の間で意見の隔たりが大きい場合、自民党の関係議員などが調整に入ることで歩み寄りが見られるが、最終的に異例の首相裁定にまで持ち込まれたのは、インフレの影響という構造的な変化に加えて、通常ベースの歳出改革と帳尻を合わせる必要に迫られた点、さらに少子化対策の余波や政局の激変といった事情が重なったためであろう。
20 岸田政権が発足した直後、2021年度補正予算では、介護・障害・保育・幼児教育に従事する職員の給与を月額9,000円、看護職員は月額4,000円を引き上げた。詳細については、2022年2月8日拙稿「エッセンシャルワーカーの給与引き上げで何が変わるのか」を参照。
21 厳密に言うと、2006年度から1食当たりの算定を変えたり、自己負担額を増やしたりする制度改正が実施されていた。しかし、1食当たり640円、3食で1日1,920円という食事療養基準額は据え置かれていた。