3)トルーマン国民皆保険案の霧消(1952年)
第二次世界大戦中の1945年4月、フランクリン・ルーズベルト大統領は他界しトルーマン氏が副大統領より昇格した。トルーマン大統領は社会保障法から脱落した医療保険を国民皆保険として導入することに意欲を示したものの、1946年の中間選挙で上下両院とも過半数を共和党に制された。
折しもソ連との対立が深まっていく中、共和党や米国医師会は国民皆保険案を社会主義化
6と痛烈に批判した。1948年の大統領選挙では民主党が分裂し支持基盤が弱まったにも関わらず、トルーマン大統領は番狂わせの当選を果たした。また、上下両院とも民主党が過半数を奪還し公的医療保険発足の期待が高まった。
しかし事は順調に進まなかった。議会で要職を占める南部州出身の民主党議員が共和党議員と同様に反対の姿勢を示した。その一因として、人種隔離政策を取っていた南部州では、医療保険導入で連邦政府が病院などでの人種統合に着手することへの懸念があったとされる。また、危機感に煽られた米国医師会は猛烈な反対運動に傾いていった。国民皆保険案に対し従前からの社会主義化批判を加えるのみならず、現状に鑑み一部戦略を転換し民間医療保険を支持する立場を取った。
戦時下に遡る1942年、企業には一定以上の賃金引上げを禁じる賃金統制が課されたものの医療保険料は対象外であったことから、優秀人材確保のために民間医療保険を導入する企業が増えていった。医療保険料に税制優遇措置が認められたこともこれを後押しした。前述のブルークロス/ブルーシールドを含めた民間医療保険加入者は1940年の人口比9.3%から、1948年には同41.5%に至った
7。さらには、公的医療保険を支持していた労働組合においても、労使交渉を通じた民間医療保険の獲得や拡充に注力するようになっていった
8。このような状況下、代案なくしては広く支持を得られないと判断した米国医師会は、国家に管理される公的保険ではなく、民間医療保険の拡張路線に舵を切った。
折しもトルーマン政権時代は、東西冷戦構造が固まり朝鮮戦争が勃発するなど対外情勢が緊迫した時期でもあり、政権末期には国民皆保険案は顧みられなくなっていた。
6 V. R. ヒュックス「保健医療の経済学」(1990年)には「第二次大戦後、ソ連邦からの亡命者たちが西欧でインタビューを受けたとき、彼らは例外なく西側世界を礼賛し、ロシアでの生活を告発したが、それには重要な例外が一つだけあった。亡命者たちはソビエト国家が提供する包括的な医療保険を失ったことを嘆いたのである(Field, 1967)。」との記述がある。
7 山岸敬和「アメリカ医療制度の政治史 20世紀の経験とオバマケア」(2014年)79頁。
8 長谷川千春「アメリカの医療保障 グローバル化と企業保障のゆくえ」(2010年)60頁には「UAW(United Auto Workers)のReutherは、1946年の時点で早くも、「われわれが政府に救済を求めるという信念に希望を与えるような証拠は何もない。近い将来、労働組合が労使交渉を通じてそのような保障を獲得できる範囲に限って、われわれは保障を勝ち取れるであろう」と言明していた。」とある。
3――社会保障法改正によるメディケイド導入