2)医師主導による中絶への法規制
1857年、全米医師会はボストンの医師が始めた中絶撲滅運動を積極的に推進した。それまでの法規制とは一線を画し、中絶を明確に犯罪とすることを企図したものであった。男性で多くがWASP
5からなる正規の医師たちの動機を整理すると概ね以下の通りとなる。
<職業的な動機>
・競争相手である非正規の医師や助産婦などを駆逐する。
・正規の医師の職業倫理を向上させる。
・政策立案者として医師の信用と名声を確立する。
<思想的な動機>
・胎動初覚が胎児の発達において特段の重要性を持たないことを認識し、胎動初覚前であっても中絶を許容できないものと考える。
・母という伝統的な性機能を果たそうとしない女性への反感。
・WASPの出生率低下
6を抑止することで、米国内でカトリック移民の勢力が増大することを回避する。
その運動の結果、1860年から1880年の間に少なくとも40の中絶禁止法が州および準州で採用された。1860年のコネチカット州法は胎動初覚概念を廃し、中絶を懇願し、他者をして中絶を行わせ、または自ら中絶を試みた女性に対し刑事責任を科した。同法はその後20年間の他の中絶禁止法の手本となった。
多くの中絶禁止法は妊婦の生命を維持するため、医師により、または医師の助言に基づいて行われる中絶は合法とする例外規定を含んでいた。すなわち、中絶が正当と認められるかどうかの権限は実質的に医師が持つことになった。尚、医師とは正規の医師を意味する。
これによって中絶を基本的に違法とする時代が約100年続くことになるが、特筆すべきは当時の中絶禁止の動きの中にキリスト教勢力の影響がみられないことである。その背景として、敬虔な信者に中絶のような行為を行う者はいないとの建前を維持したかったこと、当時は中絶を含め性的な話題を取り扱わない傾向があったことが挙げられる。カトリック教会ではローマ法王ピウス9世が1869年、生命は受精の瞬間に始まることを前提に妊娠の時期に関わらず中絶を禁じたものの、米国での反応は鈍かったとされる。プロテスタントには胎動以前は生命ではないという認識がまだ残り、中絶を希望する女性信者との軋轢を避けたかったと言われている。
さておき医師主導による中絶への法規制は進み、1900年頃にはケンタッキー州を除く当時の44州すべてに何らかの中絶禁止法があり、ケンタッキー州でも州裁判所が実質的に中絶を禁止する状態となった。中絶が違法になる中、安全な中絶へのアクセス格差が拡大していった。すなわち、富裕層は治療名目で正規の医師による中絶を行える一方で、非富裕層は危険を伴うヤミ中絶に頼らざるをえなくなっていったからだ。
1930年代の大恐慌時代には、経済的な困窮から中絶を望む妊婦が増え、医師の側も同様に経済的事情から治療用中絶としてその希望に応じるようになった。中絶の専門医やクリニックが生まれたのはこの時期と言われている。
しかしその反動で1940年代から1950年代にかけては、警察による中絶の専門医やクリニックの摘発が強化されていった。病院で中絶を行う場合、病院内の審査委員会で治療用中絶として承認される必要があったものの、その手続きの煩雑さや判断基準の曖昧さ
7に問題があった。よってヤミ中絶に頼らざるを得ない妊婦たちが存在し、その危険が注目されるようになっていった。
5 White Anglo-Saxon Protestantsの略称。
6 亀井俊介「ピューリタンの末裔たち アメリカ文化と性」(1987)130頁に「世紀の変わり目頃には、社会の指導勢力となるべきだとされていたWASPの出生率が移民の出生率の半分近くになったこともあって」とあり、WASPの出生率低下は当時、広く知られていたことが伺える。
7 荻野美穂「中絶論争とアメリカ社会」(2012年)岩波人文書セレクション39頁「1950年代初頭に行われた調査によれば、大学付属病院の53パーセント以上が不妊手術を中絶承認の条件にしており、アメリカ全体でもその割合は40パーセントにのぼっていた。このことは、妊娠の継続や出産を望まない女性に対し、中絶と引き換えの不妊手術が一種の罰、あるいは脅しとして利用されていたことを示唆している。さらに不妊手術を強要される割合は、白人の中流階級の女性よりも低所得の黒人女性の方が高く、ある調査によれば2倍以上であって、階級や人種による差別が絡んでいることを示していた。」