1|かかりつけ医という言葉の淵源
現実にかかりつけ医という言葉が今度初めて出ていますけれども、これはどういう根拠があるかわかりませんが、そんなようなかかりつけ医がいる場合といない場合とあるんですね――。国会で「かかりつけ医」という言葉が初めて登場するのは1991年9月であり、改正医療法に関する参考人質疑で、訪問看護における医師の役割を語る文脈として、こうした発言が出たのが始まりである
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注目されるのは「今度初めて出ていますけど」という部分である、この頃から「かかりつけ」という言葉が始まったことを表しており、実際に厚生省は1993年度からモデル事業を開始した。その時の経緯については、1993年3月の国会会議録における厚生省幹部の発言で把握できる
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かかりつけ医の推進モデル事業でございますが、今、国会で御審議をお願いしておる予算案の中に入っておるわけでございます。かかりつけ医推進モデル事業というのは、慢性疾患の増大等疾病構造が非常に変化しておる、あるいは住民の医療に対しますニーズがいろいろと多様化、高度化しておるというようなことに適切に対応するために、住民の身近にいらっしゃる地域の開業医の先生方がそれぞれの専門性に応じたかかりつけ医となることを地域で推進したらどうだろうかというようなことで出したわけでございます。
これを読むと、慢性疾患の患者増加など高齢化に対応できる医師(=かかりつけ医)の重要性とともに、かかりつけ医に関するモデル事業が1993年度から実施されたことを確認できる。その上で、当時の厚生省幹部は下記のように述べている。
家庭医に関する懇談会というものの報告が昭和六十二年にできまして、それを受けてモデル事業をやろうとした経緯がございます。そのときに日本医師会側からの御意見が出ましたのは、医師の裁量や患者の主治医の選定に関しまして一定の制約を課し、診療報酬の支払い方式を変更していこうとしておるものではないかというような御意見が出たりしまして、そういう反発があったというふうに私どもは聞いております。今回のかかりつけ医推進モデル事業につきましては、日本医師会を初めとする医療関係団体の方からも、これを何とか推進していこう、そして患者と医師との間の信頼関係というのを確立しよう、こういうようなお話もございます。
つまり、上記の国会答弁を通じて、厚生省が創設した「家庭医に関する懇談会」の報告とモデル事業に対して日医から意見や反発が示されたこと、さらに日医との調整を経て、かかりつけ医推進モデル事業が創設された経緯を読み取れる。
ここでポイントとなるのが「家庭医に関する懇談会」「日本医師会側からの御意見」という部分である。このうち、前者については、厚生省は1985年6月、有識者や日医幹部などで構成する同懇談会を設置し、継続的に健康状態などを把握する家庭医の育成を目指した、当時の判断としては、▽高齢社会の到来と疾病構造の変化、▽医学・医師の専門分化、▽開業医の高齢化、▽患者の大病院志向――といった状況に対応するため、患者個人の生活全般を考慮するイギリスの家庭医(GP、General Practitioner)のような医師を制度的に育成することが想定されていた
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その後、懇談会は1987年4月に報告書を公表し、(1)初診患者への対応、(2)健康相談・指導、(3)医療の継続性重視、(4)総合的・包括的医療の重視、医療福祉関係者チームの総合調整――などの機能を満たす家庭医が必要とする考えが盛り込まれた。さらに厚生省はモデル事業も実施することで、制度化に向けて本格的に議論を進めようとした。
ただ、日医は「イギリスのような国家統制の強い仕組みに変えるのではないか」「診療報酬制度の変更を通じて、医療費適正化の手段に使われるのではないか」などと反発した。こうした反発については、先の国会答弁のうち、「主治医の選定に関しまして一定の制約」「診療報酬の支払い方式を変更」といった意見や反発が日医から示されたという部分と符合しており、日医はモデル事業への非協力を決めるに至った。厚生省としては、日医の意見を踏まえつつ、家庭医に関する懇談会報告書を取りまとめた経緯があったため、調整が難航した点について、当時の雑誌では「ハシゴを外された」「真意がわからない」といった厚生省幹部のコメントが紹介されている。
このように日医内部の反対意見が強くなった一因として、この少し前に医療費適正化路線をスタートさせた厚生省官僚の吉村仁(保険局長、事務次官などを歴任)が「ホームドクター構想」を掲げていた
11ことが考えられる。つまり、厚生省が家庭医の制度化を持ち出したことで、「医療費を抑制しようとしているのではないか」とする警戒心が強まったとみられる。その後、両者が歩み寄った結果、開業医が果たしている家庭医的な機能を調査する実態調査が全国4地域で実施されたが、家庭医の制度化は断念された。
結局、現行制度をベースにしつつ、患者と医師の長期的な関係を構築するという目的の下、1993年度から「かかりつけ医推進モデル事業」が全国14カ所でスタートした
12。当時の雑誌などを見ると、同事業では地域医師会や保健所の職員などで構成する委員会を設置することとか、委員会を通じた医師の紹介、広報・相談窓口の設置などが進められたと紹介されている。
言い換えると、国家統制を嫌う日医の主張に配慮する形で、かかりつけ医は患者―医師の関係性に依拠した緩やかな概念となった。これが現在に至るまで「かかりつけ医機能の明確化」が論じられている遠因と言える。
8 1991年9月18日、第121回国会会議録参議院厚生委員会における莇昭三・全日本民主医療機関連合会長の発言>。
9 1993年3月26日、第126回国会会議録参議院厚生委員会における寺松尚・厚生省健康政策局長による答弁。一部の文章は読みやすいように省略した。明らかな誤植は筆者の判断で訂正した。
10 当時の議論については、厚生省健康政策局総務課編(1987)『家庭医に関する懇談会報告書』第一法規出版、『週刊社会保障』No.1452、『社会保険旬報』No.1591・1576・1561、『国保実務』第1600号を参照。
11 例えば、吉村が保険局長時代に専門誌に寄稿した論文では、医療費がGDPを超えて伸びる状態を「医療費亡国」と呼び、大病院外来からプライマリ・ケアの開業医に予算を重点化する方針を示した。吉村仁(1983)「医療費をめぐる情勢と対応に関する私の考え方」『健康保険』1983年3月号など。事務次官就任後の1984年9月の会見でも家庭医の重要性に言及した。『社会保険旬報』No.1481を参照。
12 かかりつけ医のモデル事業に関しては、『社会保険旬報』No.1804、『ばんぶう』1993年8月号を参照。