1――はじめに
本稿執筆時点(10月7日)、石破首相による「終戦八十年コメント」は未発出である。報道では10日にも声明が出る見込みとされるが、あくまで本稿は現状の情報と筆者の構想的推察に基づく。内容が異なる可能性や、発出そのものが見送られるといった不確実性も残る。しかし、その場合でも「なぜ今、政治が説明責任をめぐる言葉を残す重要性があるのか」を問う意味で、本考察は有用であると考える。
歴史の節目、すなわち社会が自らの歩みを語り直すべき時期に、沈黙や回避が選ばれること自体が、社会にとっての重大なシグナルとなる。
2――権力の終章と「最後の言葉」
石破政権は既にレイムダック化しており、自民党新総裁決定を踏まえ、現内閣も残りわずかである。この局面で首相が終戦八十年コメントを出すことに懐疑的な見方もある。だが、そうした「終盤」にこそ、政治家が素の理念を問われる。大きな関心を呼ぶのは、石破首相が過去の歴代談話同様に、外交儀礼ではなく、「説明責任」「国会議事録回復」という制度的な領域へ踏み込む可能性にある点だ。
権力の終末に発せられる言葉には、政治家の理念が最も率直に表れる。支持率や政局から解放されたその瞬間こそ、自己正当化ではなく、歴史への省察が可能になる。自己正当化でなく、歴史に対する省察が紡がれるなら、その意義は限りなく大きい。
3――「反軍演説」復元:歴史・記憶・ディストピア
9月、石破首相は自民党幹部に対し「斎藤隆夫反軍演説」の国会議事録復帰を指示した。1940年2月の帝国議会での斎藤隆夫衆議院議員の演説は「国策への反逆」と見なされ、三分の二以上が抹消された。加えて斎藤は衆議院から除名された。斎藤はこう語っていた。
「国民に向かって犠牲を要求するばかりが政府の能事ではない。これと同時に政府自身においても真剣になり、真面目になって、もって国事に当たらねばならぬのではありませぬか。」
また、支那事変(日中戦争)の目的が不明であり、議会審議は困難と指摘し、負担の公平性、説明責任なき動員への抗議を表明した
1。
この削除は、「都合の悪い記録」を意図的に消去するという点で、オーウェル『1984年』のディストピア的記憶統制と酷似する
2。この比較は、権力による情報統制の危うさを示すものである。
歴史の修正でもなく、政治言語回復でもなく、「削除された事実をそのまま可視化する」(復元)という行為は、記録・言論・公共性の原点を社会に投げかける契機となる。
1 斎藤隆夫『反軍演説』(第75回帝国議会衆議院本会議、1940年2月2日)。「支那事変処理に関する質問演説」。(参考:東北大学近代日本研究センター「反軍演説」翻刻PDF)。斎藤は政府の説明責任を問う前提として、戦時下における「国民の犠牲の不公平」を具体的に指摘した。原文では次のように述べている。
「いずれの時にあたりましても戦時に当って国民の犠牲は決して公平なるものではないのであります……しかるにこの不公平なるところの事実を前におきながら、国民に向って精神運動をやる。国民に向って緊張せよ、忍耐せよと迫る……しかしながら国民に向って犠牲を要求するばかりが政府の能事ではない。」
2 George Orwell, Nineteen Eighty-Four(1949)より。作中では「過去の新聞・記録を日々書き換える"真理省"による記憶統制」が描かれ、権力が情報・歴史を選択的に抹消する構造を示した。この比喩は、1940年の「反軍演説」議事録削除と構造的に通じる。
4――「目的なき犠牲」と社会的信頼:現代への警句
「もし一朝この期待が裏切らるることがあったならばどうであるか、国民心理に及ぼす影響は実に容易ならざるものがある。3」
斎藤はこう警鐘を鳴らした。政治が明確な目的や納得できる説明を欠いたまま国民に負担・犠牲を求めれば、いずれ信頼そのものが崩壊するという根本的な警句である。
この構図は2020年代の現代日本にも重なる。コロナ禍の経済対策、消費税、エネルギー政策、少子化対策など、根本の「何のためか」「説明は尽くされたか」が見えないまま負担だけが積みあがる政策領域は少なくない。
直近の世論調査でも、内閣支持理由の上位を「人柄」「雰囲気」「他よりマシ」が占め、「政策の妥当性・説明への納得」は下位になりがちだ
4。
「説明なき動員」構造が続く限り、支持は積み重なっても、いざ矛盾や責任の所在が明らかになれば、その信頼は一瞬で反転する。——それは"裏切り"ではなく、失われた説明のつけを払う社会の自然な反応である。これは戦前だけでなく、現代社会における「社会的信頼」の存立条件そのものに関わる問題である。
5――「政治の責任」という普遍的課題
政治責任を問う姿勢は、特定の思想や政権を超えた、立憲主義と議会制民主主義の前提となる規範である。
たとえばドイツでは歴史認識や透明化が政治文化の柱であり、英米でも議会や行政の説明責任が社会と制度の正統性を支える。
一方、日本では「外交儀礼としての歴史談話」と「国内政策決定への説明責任」に落差がある。
戦後の終戦記念日や国際会議で平和や歴史認識が語られる一方で、「政策失敗の原因は制度上の課題」はきわめて抽象的に扱われがちである。
また、組織経営の視点でも、現代の人的資本経営や従業員エンゲージメントの要は、「説明・納得・合意形成」にある。目的が不透明で対話が不十分な施策からは、自律的成長も社会的信頼も生まれにくい。
6――歴史記録の重層性と現代社会
斎藤隆夫の「反軍演説」復元、「消された記録」に光を当てることは、歴史の連続性や国際的潮流との比較においても意味がある。
ナチス・ドイツやスターリン体制下の「書き換え」「抹消」、現代諸国家における情報統制など、「記憶・記録への権力の介入」がいかに社会の自律性と多様性を奪うかは歴史の証明するところである。言論空間や議事録・データベースがオープンであり続けることこそ、ガバナンスの正統性を支える条件である
5。
5 例えば、OECD『Government at a Glance 2025』(2025年)は透明性と記録・情報への自由なアクセスが公共ガバナンスの正統性・説明責任の核心であると指摘している。
7――組織経営への補助線:説明責任・エンゲージメント・信頼の条件
政治の説明責任をめぐる問題は、組織経営における「説明責任」と構造的に近い。企業が人的資本経営やリスキリングを進める際、「なぜ必要か」「誰にどんな効果をもたらすか」を明示することが従業員の納得を育む。
十分な説得と対話が欠けた企業は、従業員エンゲージメントを得られず、信頼という無形資産を失えば、離職・抵抗・生産性低下を招く。
歴史記録の恣意的削除や説明なき政策の連鎖は、組織・社会を静かに蝕む。説明責任こそが「あと一歩頑張ろう」と思える共感=エンゲージメントの根幹なのだ。
8――おわりに
冒頭述べた通り、本稿執筆時点で石破コメントは未発出である。だが、もしこのコメントが「外交の区切り」でなく、「政府自身による説明責任の明示」や「語ることそのものの再定義」であれば、私たちの社会にとって歴史的足場の補強となるだろう。
仮に発出されなかったとしても、反軍演説の議事録復帰という象徴的行為自体が、言葉の価値・公共性を問い直す歴史的契機として語り継ぐに値する。
「言葉を残すことは権力の正当性を支える唯一の方法」である―――この原理と、「語られざるもの」への目配りは、決して時代遅れといわれることはないだろう。
政治が説明責任を回避してきた慣性を断ち切り、自らの言葉で語る努力を重ねるとき、信頼もまた積み上がっていくはずである。
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