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いま振り返るベヴァリッジ報告-少子化対策も組み込んだ80年前の社会保障計画-

2025年05月15日

(磯部 広貴) 保険商品

5――所得補償のための社会保険

ベヴァリッジ報告の提案する社会保障の中で中核となる社会保険についてみていきたい。ベヴァリッジは欠乏の原因を、失業、疾病、災害、老齢、(世帯主の)死亡などによる稼得能力の喪失や減少とした上で、社会保険を所得補償の手段として位置付けている。

ベヴァリッジ報告においては暫定額としながらも精緻に保険料や給付の具体水準を導いているが、このレポートでは具体水準には触れず、主な考え方がどのようなものであったかを示したい。

1)ナショナル・ミニマムの保障
全国民を対象として、稼得能力を失った場合に最低生活水準を保障するためのナショナル・ミニマムを社会保険より給付することとしている。前述の通り受給は被保険者の権利であり、受給に際して資力調査は求められない。その水準については、個人がナショナル・ミニマム以上の備えをする意欲を残すものでなければならないとしている。

このように書くと給付水準が低いように感じられるかもしれないが、懲罰的色彩も伴った救貧法に基づく劣等処遇の原則が最も低い水準の賃金以下であることを求めたことと比較して、ナショナル・ミニマムは標準的な労働者の賃金より低い水準であることを述べたに止まり、画期的な7政策提言であった。

ベヴァリッジ報告では食費、被服費、光熱費と雑費、余裕費、家賃を積み上げてナショナル・ミニマムを算出している。その水準が当時の所得補償として大胆な金額であったことは、前述の通り国民から強い支持を受けた事実が物語っている。
 
7 思想としてのナショナル・ミニマムは1897年にウェッブ夫妻が提唱したが、国家制度としては改正を経た救貧法が存続する中、ベヴァリッジ報告が精緻な分析を基に具体金額まで提案した意義は大きい。
2)老齢年金ではなく老齢後の退職年金
男性65歳以上、女性60歳以上で退職した者については、社会保険より年金が支給される。また、退職せずに保険料支払いを継続する場合、その期間に応じて将来の退職後に支払われる年金は増額されていく。

当時と今では平均寿命が異なるため男性65歳と女性60歳はかなりの高齢であるが、それよりも留意すべきは、当該年齢への到達によって年金支給が承認されるのではなく、あくまで到達後に退職すなわち収入を失うことを要件とすることだ。年金の水準は失業の際の給付と同等8と考えてよい。

高齢者に厳しい制度と感じられるかもしれないが、高齢者の健康状態は個体差が大きい。同じ年齢で寝たきりの者もいれば肉体労働に従事している者もいる。そのような個体差を踏まえて必要とする者に年金支給を行う観点から、あくまで退職を条件に判断することは合理的に感じられる。
 
8 ベヴァリッジ報告では、夫と就業していない妻の場合、「失業給付、労働不能給付および訓練給付」も「退職年金」も週40シリングとしている。
3)葬祭一時金の組み込み
社会保険からの給付には「失業給付、労働不能給付および訓練給付」、「退職年金」「出産給付」「寡婦給付」「保護者給付」「業務災害年金」「結婚一時金」「出産一時金」「葬祭一時金」「業務災害一時金」がある。

ここでは葬祭一時金について触れたい。

それまで国民の多くは葬祭の費用を主に民間生命保険会社の簡易生命保険で準備していた。ベヴァリッジはその経費率が4割近いという事実、すなわち、支払った保険料の4割近くが給付の財源になっていないことを示した上で、自らの提案する社会保険に加えるのであれば経費率が2%を超えることはないと試算している。給付金額は墓地の費用も加えて成人の葬祭のための標準的な水準で設定した。

葬祭の費用までナショナル・ミニマムに含めるべきか議論の余地があるかもしれないが、誰が亡くなっても葬祭は必要であり費用は遺族が負担するのが当時の英国の実態9であった。そのように全国民共通と言ってよいニーズであれば国家の社会保険に組み込み最も費用効率のよい方式で運営する。ベヴァリッジの徹底した合理主義が推察できよう。

尚、福祉国家のあり様として人口に膾炙している「ゆりかごから墓場まで」の墓場の部分が葬祭一時金になろうが、初めてその表現を用いたのはベヴァリッジではない10ようだ。
 
9 真屋尚生「イギリスにおける簡易生命保険の盛衰」(2004年)45頁では葬祭費用の準備のために簡易生命保険が労働者階級に浸透した背景として「19世紀後半のイギリスにおいては、家族・近親の死に際し、可能な限り派手な葬儀を行うことが、階級の上下を問わず、一種の社会現象として一般化しており」と記述している。
10 英国で公式にこの表現を用いたのは1943年3月のチャーチルによるラジオ演説が最初とされる。その中では自らを「ゆりかごから墓場まですべての目的のため、あらゆる階層にとっての国民強制保険の強力な支持者」と表現するなど社会保障制度への理解があることを訴求しながらも、国民の支持を集めているベヴァリッジ報告の実行に関しては言及しなかった。

6――前提を整えるための公的扶助

6――前提を整えるための公的扶助

保険料を主な財源とする社会保険で所得補償を行うことを中核としつつも、それが実際に機能して欠乏からの解放を導くためにはいくつか社会の前提を整える必要があるとベヴァリッジは考えていた。

具体的には国家が租税を財源とする公的扶助にて以下3つの施策を実行することが必要としている。

1)児童手当の支給
ベヴァリッジ報告では、両親に収入がある場合は第1子を除く児童に対し、両親に収入がない場合は第1子を含めた児童に対し児童手当を現金給付するとしている。児童1人あたりの給付水準は、夫婦への失業等給付あるいは退職年金の5分の1であり、児童が16歳になるまで継続して支払われる。

労働の対価である賃金は、必ずしも労働者の家族の数を反映して支給されるものではない。必然的に大家族こそナショナル・ミニマムを確保できず貧困に陥る可能性が高くなる。これを避けるための児童手当であるが、ナショナル・ミニマムの確保だけが目的ではない。

少子化による人口減の可能性がある中、ベヴァリッジは児童手当について国家を維持存続させるための施策と位置付けていた。少子化対策としては、子どもを欲しない夫婦が子どもを育てるようになる効果は期待できないと率直に評価しつつ、現状より多数の子どもを望む夫婦の出産を後押しすること、児童に健康的な生活の基盤を提供することに貢献すると考えた。

一方で、児童育成の責任は国家のみにあるのではなく両親との分担とした上で、最終案では前述の通り、両親に収入がある場合に児童手当の支給は第2子から(第1子には支払わない)との結論を導いた。

2)包括的な保健およびリハビリテーション・サービス制度
当時としては新しい概念であったリハビリテーションを含めたことにまず注目したい。疾病は稼得能力を失わせ欠乏を引き起こすものの、疾病からの治癒だけでは足りない。リハビリテーションによって労働に復帰できる状態に導くことまでが社会保障制度であるとベヴァリッジが考えていたことが伺える。

これを基本的に11公的扶助で支えるということは受診時の患者負担ゼロを意味する。実際には巨額の財政負担に耐えられず制度として破綻し、これをもってベヴァリッジ報告を理想に走り過ぎた内容として批判する声もある。しかし実のところベヴァリッジは公的扶助を謳いながらも、財政的基礎について詳細な結論は提案できないとして、関係者による今後の調査に委ねている。強い意志をもって公的扶助で支えると述べたわけではない。

ベヴァリッジが結論を先送りにした他の課題として、社会保険の給付水準を決定するに際しての家賃が挙げられる。当時ロンドンと近郊の家賃は他の地域に比べて高額であったが、全国一律の給付額ではそういった地域で家賃を支払った後にナショナル・ミニマムを維持することは困難になる。ベヴァリッジ報告では家賃をどう給付額に反映するかを今後の調査に委ねるとしたが、この問題については、家賃の高い地域の給付額を引き上げる代わりに家賃の低い地域の給付額を引き下げる、あるいは家賃の高低を保険料に反映させることで財源の大きな変動は避けられるため、先送りにしたことも一定理解できる。

他方、医療に踏み込まず12公的扶助で支えるとして論を進めたことは、社会保険の制度内容を精緻かつ詳細に検討したことと対比して不可思議な印象さえ受ける。
 
11 ベヴァリッジ報告では暫定的に社会保険料から包括的な保健およびリハビリテーション・サービス制度への拠出を一部認めている。その比率は21歳以上被用者の場合で保険料の1割強である。従来の健康保険で在宅医療の費用を負担していたことが背景にある。
12 毛利健三「イギリス福祉国家の研究 -社会保障発達の諸画期-」(1990年)201頁では、ベヴァリッジが委員会発足当初から野心的であったことを示しつつ「第一回委員会議事録から明らかなことだが、検討課題をめぐり、かれは、保健サーヴィスには深入りしないことに同意したものの」とある。
3)雇用の維持(大量失業の回避)
わが国の古い文献に、雇用の維持あるいは完全雇用政策が取られなければ社会保障制度は「惰民養成」との厳しい表現がある。労働によって収入を得られる社会を国家が整えることが先にあって、その後に何らかの事情で働くことができない国民を守る社会保障制度が機能する、そうでなければ怠け者が保護され、5つの巨悪の1つである無為idlenessが蔓延する社会を招く。

公的扶助ながら財源は厳密には社会保障予算ではなく、ベヴァリッジはあくまで政府の経済対策と位置付けている。提案した社会保険の実効性を担保する前提条件であることから、ベヴァリッジ自身の関心もその後、雇用政策に移っていった。尚、ベヴァリッジが前提条件として考える雇用政策とはすべての失業をなくすことではなく、大量失業を回避することで同一人にとって何年もの失業期間を発生させないことであった。

かなり後のことになるが、サッチャー政権が社会保障制度の改革に着手するのはまさに失業者が急増しているときであった。

7――妻の位置付け

7――妻の位置付け

ベヴァリッジ報告では社会保険の適用に際し国民を、I被用者、IIその他の就業者、III主婦、IV労働年齢にあるその他の者、V労働年齢に達しない者、Ⅵ労働年齢を過ぎた退職者の6つに分類している。

現在のわが国においてさえ「専業主婦の労働が評価されていない」といった不満を耳にすることがある。ベヴァリッジは80年前の時点で専業主婦の労働を高く評価し、その支えあってこそ夫は労働で収入を得られるのであり、その支えなくしては国家の存立も危うくなると述べている。当時の英国では妻8人のうち7人が専業主婦であった。よってIII主婦というカテゴリーを作った上で、妻がこれを選択した場合は社会保険適用免除者として保険料の拠出不要としている。

妻が働く場合は、I被用者あるいはIIその他の就業者として保険料を拠出することもできる。されど基本給付である「失業給付、労働不能給付および訓練給付」をみた場合、

<夫と専業主婦に対する給付額 = 働く妻のいる夫の給付額 + 働く妻の給付額>

と設計されている。妻が働いて保険料を拠出しても給付は増えないのであるから、多くの妻が働かないことを選択する可能性が高い。これをもってベヴァリッジ報告が妻の専業主婦化を固定したという批判がある。

既に存在した制度では専業主婦への保障は不十分であり、ベヴァリッジはこれを大いに改善したものの、その後に女性の社会進出が進む中では難点ありとみなされた。社会保障制度への評価は世のあり方に応じて厳しく変動するものと言えよう。

8――おわりに

8――おわりに

このレポートを作成するに際し複数の日本語文献を参考としたが、近年、ベヴァリッジ報告を真正面から取り扱ったものは少ない。その中で、全国社会保険労務士会連合会の企画によって「ベヴァリッジ報告 社会保険および関連サービス」が1969年以来の本文全訳として2014年に出版されている。関係者のご尽力に心より敬意を表したい。

冒頭に記述した通り、すべての国民に社会保障制度を普及させる目的で野心的に書かれたベヴァリッジ報告は首尾一貫した合理性を有している。どの国でも福祉は政治に振り回されがちであるが、わが国の今後の社会保障制度改革においても参考に値する点が多々あろう。

尚、ベヴァリッジ報告とほぼ同時期におけるわが国の社会保障制度が軍事的要請によって整えられた事情13を知ると、彼我の違いに暗澹たる思いに至ったことを申し添えたい。
 
13 近藤文二「社会保障の歴史」(1963年)237-238頁「年金保険のばあいはむしろ、軍の要請にもとづいて実現されたのであって、年金保険という長期の保険技術を利用して、零細な労働者の保険料をつみたて、これで軍需資金調達の一助としようとしたわけである。わが国の社会保険は、実は、戦前においては、こうした軍の要請のもとにとりあげられたものが多く、昭和13年の国民健康保険にしても、これによって、農村の若い人たちの健康を保全し、兵力増強の一助としようというのであった。」

<主な参考資料>
河合秀和「クレメント・アトリー チャーチルを破った男」中公選書(2020年)
全国社会保険労務士会連合会企画 ウィリアム・ベヴァリッジ(一圓光彌監訳)「ベヴァリッジ報告 社会保険および関連サービス」法律文化社(2014年)
小峯敦「ベヴァリッジの経済思想 ケインズたちとの交流」昭和堂(2007年)
真屋尚生「イギリスにおける簡易生命保険の盛衰」三田商学研究(2004年)
堀勝洋「社会保障法総論[第2版]」東京大学出版会(2004年)
毛利健三「イギリス福祉国家の研究」東京大学出版会(1990年)
樫原朗「イギリス社会保障の史的研究II」法律文化社(1980年)
近藤文二「社会保険」岩波書店(1963年)
近藤文二「社会保障の歴史」全社連広報出版部(1963年)

保険研究部   主任研究員・気候変動リサーチセンター兼任

磯部 広貴(いそべ ひろたか)

研究領域:保険

研究・専門分野
内外生命保険会社経営・制度(販売チャネルなど)

経歴

【職歴】
1990年 日本生命保険相互会社に入社。
通算して10年間、米国3都市(ニューヨーク、アトランタ、ロサンゼルス)に駐在し、現地の民間医療保険に従事。
日本生命では法人営業が長く、官公庁、IT企業、リース会社、電力会社、総合型年金基金など幅広く担当。
2015年から2年間、公益財団法人国際金融情報センターにて欧州部長兼アフリカ部長。
資産運用会社における機関投資家向け商品提案、生命保険の銀行窓版推進の経験も持つ。

【加入団体等】
日本FP協会(CFP)
生命保険経営学会
一般社団法人 アフリカ協会
一般社団法人 ジャパン・リスク・フォーラム
2006年 保険毎日新聞社より「アメリカの民間医療保険」を出版

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