米国が第2次世界大戦に参戦するよりも前
1、1941年8月に同国のルーズベルト大統領と英国のチャーチル首相は大西洋上で会談し、両国が願う戦後の世界の姿を示す大西洋憲章を発表した。裏返せば、目下の苦しい戦争に立ち向かう大義を公にする必要があったとも言えよう。その8項目のうち第5項は「両国は、労働条件の改善、経済的進歩および社会保障をすべての者に確保するため、全国家間で経済分野における完全な協力を実現させることを希望する」とある。そのとき英国はどのような状況にあったのだろうか。
当時は保守党党首のチャーチルを首相とし、労働党党首のアトリーを副首相とする戦時連立内閣が英国を率いていた。失業保険、国民健康保険など社会保障に相当する制度はいくつもあったが、対象となる国民も主務官庁もばらばらで整合性は取れていなかった。その非効率ぶりは戦時下の混乱の中、多くの国民が意識するところであった。第1次世界大戦後、復員した兵士の多くが貧困に陥ったことも記憶に残っており、その再現をイメージされては過酷な戦争の継続は難しい状況と言えた。
労働組合会議からも政府に社会保険の総合的な検討が求められる中、1941年6月、無任所大臣グリーンウッドの下、各省庁にまたがる調査委員会が組織され、委員長には失業問題の権威とされていたベヴァリッジ
2が就任した。実のところこの人事はベヴァリッジが当時の労働大臣ベヴィンから嫌われて放逐された結果であり、本人も当初は失望したと伝わる。
しかしその後のベヴァリッジは形式的あるいは実務的と目されていた委員会を野心的に進めていき、同年12月と翌1942年1月には後のベヴァリッジ報告の基本線とも言える覚書2つを委員会に提出した。ベヴァリッジ以外の委員は関係省庁11部門の官僚であったため、それぞれの部門の大臣の承認なくしては署名ができない。そして上述の両覚書に書かれた内容を踏まえて、無任所大臣グリーンウッドは大蔵大臣と相談の上、他の委員はあくまで補佐役に過ぎず報告書がいずれ出るとしてもベヴァリッジ単独で署名するよう通告した。これに対してベヴァリッジは翌日、応諾の返信を行った。この書簡のやりとりをベヴァリッジ報告の第1章で公開していることにベヴァリッジの並々ならぬ反骨心が感じられる。前述の通りベヴァリッジ報告のタイトルは「社会保険および関連サービス」であるが、作成者は政府の委員会ではない。略称あるいは愛称として委員長の名前が冠されてベヴァリッジ報告と呼ばれているのではなく、英語ではReport by Sir William Beveridgeと、あくまでベヴァリッジ個人としての報告と位置付けられている。
単独署名の通告を受けた後、ベヴァリッジはさらに精力的な取り組みを行い、次々と覚書を提出した。このように情報が小出しにされたこともあり、ベヴァリッジ報告は公表前から国民の関心を得ていた。ベヴァリッジが報告書に署名したのが11月20日、ベヴァリッジによる放送と出版は12月1日であったが、戦時にも関わらずベストセラーとなり1年間で完全版が25万部、縮刷版は35万部以上売れたとされる。また、戦場でも配布されて
3兵士にも読まれていた。
ベヴァリッジ報告は大衆から幅広く強い支持を受けたものの、チャーチル率いる保守党は冷淡な態度を取った。多大な支援を受けていながら先進的な福祉を整えるわけにはいかないという米国への配慮とともに、先行きの見通せない戦後行政に制約を受けたくなかったためだ。一方、労働党は従来の主要産業国有化に加えてベヴァリッジ報告の実行を公約に掲げる。ナチスドイツの降伏後、1945年7月に行われた国政選挙
4では労働党が圧勝して政権を取り、英国を勝利に導いた功績にも関わらずチャーチルは首相の座から追われる結果になった。
1 1941年12月、日本による真珠湾攻撃を受けて米国の参戦が実現したが、米国は同年3月に武器貸与法を成立させ、これによって英国やソ連などに武器や軍需品を支援していた。
2 1879年生まれ。大学卒業後、隣保館(社会福祉施設)に就職し失業問題に取り組む。日刊紙の記者を経て商務大臣であったチャーチルの下、官僚となり、職業紹介所の新設(局長に就任)と失業保険の導入に尽力。LSE(London School of Economics and Political Science)学長時代には失業保険法定委員会の議長に就任。オックスフォード大学ユニバーシティカレッジ学寮長を経て1940年に労働省の徴兵局長になっていた。
3 河合秀和「クレメント・アトリー チャーチルを破った男」(2020年)20頁「この報告はドイツ語にも翻訳され、ドイツ兵には空からまかれたビラで届いていた。ヒットラーが自殺した地下壕にあった書類の中にも入っており、それにはナチ保健省の官僚の手で「ドイツの社会保険制度より数段優れている」という書き込みがあった。」
4 議員の任期は本来5年であるものの、第2次世界大戦のため国政選挙は延期されており、前回は1935年と10年振りに民意を問うものであった。
3――あるべき社会像