I.はじめに1
1997年のアジア経済危機以降、韓国社会では貧困と所得格差が社会的問題として浮上した。2018年における韓国の相対的貧困率(所得が中央値の半分を下回っている人の割合、以下「貧困率」)は16.7%で2018年のデータが利用できるOECD平均の11.7%を大きく上回り、加盟国の中で5番目に高い数値を記録した。一方、統計庁の「家計金融福祉調査」による再分配所得ジニ係数
2は、2016年の0.355から2020年には0.331まで改善された
3。しかし、同期間における市場所得基準ジニ係数
4は0.402から0.405に上昇している。また、再分配所得ジニ係数も2021年には再び0.333まで上昇した。
韓国の貧困率がOECD加盟国の中でも相対的に高い理由は、なかでも高齢者貧困率が高いことと、労働市場の「二重構造」(labor market dualization)が強まり、大企業で働く労働者、正規労働者、労働組合のある企業の労働者などの1次労働市場と、中小企業で働く労働者、非正規労働者、労働組合のない企業の労働者などの2次労働市場の格差が拡大していることなどが挙げられる
5。貧困や格差の問題を解決するためには、働く貧困層の発生を抑制することが非常に重要であり、最低賃金はこの機能を果たす最も強力な政策手段である
6。
国際労働機関(ILO)は最低賃金を「賃金分布の底辺にある労働者を保護する目的で賃金構造に下限を提供するものである」と定義しており、2015年現在、加盟国186カ国のうち92%の国が最低賃金を導入していると言われている。韓国政府も、労働者に対して賃金の最低水準を保障し、労働者の生活安定と労働力の質的向上を図り、国民経済の健全な発展に寄与することを目的(最低賃金法第1条)に、1986年12月21日に最低賃金法を制定し、1988 年から最低賃金制度を施行している。
韓国における最低賃金制度を含む社会政策の主な特徴は、政権により制度の優先順位が大きく変わることである。つまり、韓国では1987年に現在の憲法になってから国民の直接選挙によって大統領を選ぶ大統領制を実施しており、1988年に盧泰愚氏が大統領に選ばれてから約10年毎に保守政権と進歩政権の間で政権交代が行われ(大統領の任期は5年で再任は不可)、その度に政策の優先度が大きく変わった。軍事政権や保守政権はビジネスフレンドリーな企業や経済重心の政策を、進歩政権は最低賃金の大幅引き上げ等の労働者や社会保障を強化する政策を優先的に実施した。
しかしながら、最近はビジネスフレンドリー政策を実施しても経済成長率が期待したほど上がらず、社会保障政策を強化しても格差問題が大きく改善されない現象が起きている。その理由としては、韓国経済が内需よりも輸出に強く依存しており、外部要因の影響を受けやすいこと、ギグワーカーなど新しい働き方が登場し、社会保障制度の保護から外れていること、政治的理念が異なる政権が政権交代をすることにより、制度の継続性が乏しくなったことなどが考えられる。
本稿では韓国における最低賃金の概要と最低賃金の引き上げをめぐる議論、そして今後の課題などについて考察した。
1 本稿は、金明中(2024)「韓国における最低賃金の引き上げをめぐる議論と課題」『日本労働研究雑誌』2024年10月号(No.771)を加筆修正したものである。
2 再分配所得ジニ係数=市場所得+公的移転所得-公的移転支出。韓国語では「可処分所得ジニ係数」。
3 大企業従事者と中小企業従事者、正規労働者と非正規労働者、資産を持っている者と資産を持っていない者等の間で所得格差が広がったものの、政府からの年金給付(公的年金と基礎年金)、手当、助成金等の給付は増えたのが再分配所得ジニ係数が改善された主な理由である。
4 当初所得ジニ係数=稼働所得+財産所得+私的移転所得-私的移転支出。韓国語では「市場所得ジニ係数」。
5 金明中(2024)pp.2より引用。
6 チョン・ビョンユ(2013) p.141より引用。
II.韓国における最低賃金の概要