TISFDの設立背景と今後の行方――システム思考の観点から――

2025年02月14日

(日本生命保険 執行役員、PRI理事、TISFD Steering Committeeメンバー 木村 武)

5――ダブル・マテリアリティとシステム思考

ここまで、人々(people)の不平等・社会課題に関して、企業と投資家がどのように関係し、TISFDがこれらについてどう開示していこうとしているのか概観しました。容易に想像がつくように、TISFDは開示において、財務マテリアリティ(financial materiality)とインパクト・マテリアリティ(impact materiality)の双方に基づく、ダブル・マテリアリティのアプローチを採用します。投資家にとって、投資先企業の財務パフォーマンスを左右する、企業固有のリスクと機会の情報はとても重要です(財務マテリアリティ)。また、企業の様々なステークホルダー(市民社会、労働組織、NGO、規制当局など)にとっては、企業が直接関与する人々のウェルビーイングに対してどのようなインパクトを及ぼしているかに関する情報が重要です(インパクト・マテリアリティ)。また、企業が人々のウェルビーイングにもたらすインパクトは、財務マテリアルな企業固有のリスクや機会の根本原因になっているので、同インパクトに関する情報は投資家にとっても重要です。システムレベル・リスクとしての不平等の重要度(財務マテリアリティ)を評価するうえで、ダブル・マテリアリティのアプローチは不可欠と考えられます。

この点に関連して、TISFDの設計思想には「システム思考(systems-thinking)」がベースにあることについて触れておきたいと思います。システム思考とは、物事を「バラバラな部分」として捉えるのではなく、「全体のつながり」として見る考え方です。例えば、みなさんが会社に遅刻したとしましょう。遅刻の直接の原因は「スマホの目覚まし時計のスヌーズを何度も繰り返してしまった」ことにあったかもしれませんが、それだけでは全体像は見えません。システム思考では、この遅刻がどのような要素に影響されているかを考えます。前の晩に夜更かしをしたとか、二日酔いになるほど深酒をしたとか、深酒は会社で溜まったストレスが関係しているとか、他にも原因がないかどうか考えます。システム思考は、こうした「原因と結果のつながり」を重視して物事を見ます。問題が一つの原因だけではなく、複数の要素や影響の結果であることを理解し、どうすればその問題を解決できるかを考えます。遅刻を繰り返さないようにするには、目覚まし時計をもう一つ買うのも選択肢かもしれませんが、全体のつながりを考えることも重要です。

TISFDは、システムレベル・リスクとしての不平等の重要度(materiality)について明らかにするために、(1)個々の企業が人々のウェルビーイングに及ぼすインパクト、(2)不平等の蓄積過程、(3)企業、投資家、市場に対するシステムレベルの金融的効果(financial effect)の関係について、今後、概念の基礎固めを行っていく方針です。システム思考たる所以です。

6―― People, Climate, Natureをつなぐ

6――People, Climate, Natureをつなぐ

システム思考という観点で、TISFDにはもう一つ重要なポイントがあります。PeopleとPlanet(Climate、Nature)をつなぐという視点です。

2030年達成を目指すSDGsの進捗は遅れに遅れています。2030年に向けて順調に改善が進んでいるSDGsのターゲットは全体の2割程度で、残りのターゲットはほとんど進捗していないか、むしろ後退している状況です。これには様々な要因が考えられますが、サステナビリティ課題に対する企業の「サイロ型アプローチ」――すなわち、企業がある程度実現可能でかつ取り組み易い目標のみを選択すること――も影響しているのは否めません。企業や金融機関が、気候変動や自然資本など環境課題への対応を進める一方、必要な社会課題への対応を十分に行ってこなかったということです。

温室効果ガス排出量の削減などの気候変動の対応は、外部不経済の内部化に伴うコストプッシュ型のインフレ圧力を高めると考えられます。また、再生エネルギーへの移行過程において、ロシア・ウクライナ問題の影響から、エネルギー供給が不安定化し、物価高がさらに進みました。所得格差が拡がる中でのインフレは、低所得者層の購買力低下と格差のさらなる拡大をもたらしました。また、森林破壊や土地劣化への対応、海洋保護など自然資本への対応は、農林水産業の持続可能性のために不可欠ですが、短期的には一次産業従事者の活動に制約を課すことで彼らの生活を不安定にします。気候や自然といった環境課題の対応を進めても、社会課題が未解決のまま放置されたのでは、反SDGs、SDGs疲れとなって、net zeroやnature positiveに対するモメンタムも損なわれてしまいます。

こうしたことを背景に、サステナビリティ課題間の相互連関性を重視するアプローチの重要性が非常に高まっています。国際機関や大学などの研究機関では、サステナビリティ課題への「nexus(つながり、相互関係)アプローチ」と呼ばれていますが、「システム思考型アプローチ」と言い換えてよいでしょう。そして、まさにTISFDは、システム思考型アプローチを体現したものといえます。TISFDは、環境システム、自然システム、社会システムが相互に密接に関連していることを踏まえ、企業や金融機関によるnet zeroやnature positiveに向けた公正な移行(just transition)を促進できるよう、People(人々)とPlanet(地球)をつなぐ枠組みの構築を目指しています。

具体的には、TISFDは以下の3点を念頭においています。第一に(1)、自然の劣化、生態系の崩壊、気候変動が人々や社会に及ぼす潜在的、現実的なインパクト(ならびに、同インパクトに関連するリスク)を考慮する。第二に(2)、net zeroやnature positiveに向けた企業や金融機関の行動、そして政府の政策が人々や社会に与えるインパクト――特に不平等に与えるインパクト――を考慮する。第三に(3)、人々における不平等が、気候変動や自然資本に関する政策や戦略の有効性を阻害する要因になっているのかどうかを考慮する、という点を重視しています。

7――相互運用性の確保と今後の動き

7――相互運用性の確保と今後の動き

TISFDは、PeopleとPlanet(Climate & Nature)をつなぐ開示の枠組みを構築していくうえで、TCFDとTNFDの4つの柱(ガバナンス、戦略、リスク管理、指標と目標)との整合性を図りながら、ISSB(国際サステナビリティ基準審議会)やGRI(Global Reporting Initiative)も含む既存の報告基準との相互運用性を確保していく方針です。

TISFDの勧告は、TCFDとTNFDの開示勧告とともに、気候、自然、社会・不平等に関連するリスクとインパクトに対して、企業や金融機関が首尾一貫した、互いに補完的な方法で対応し、公正な移行(just transition)に向けた取り組みが促進されることを目指しています。そのことを実現するために、TISFDは、1)TCFDとTNFDの基本的なアプローチを維持することと、2)不平等・社会関連課題の独自性・特殊性に対応していくために、両タスクフォースのアプローチを改良させていくことについて、適切なバランスをとっていく必要があります。具体的には、TISFDは、(1)TCFDとTNFDによって提供された情報開示の枠組みの全体構造と整合性を図る一方で、(2)ビジネスや金融が人々に与えるインパクトに関する国際行動基準(ビジネスと人権に関する指導原則[国連]、責任ある企業行動に関する多国籍企業行動指針[OECD])の内容を踏まえるとともに、(3)不平等に起因するシステムレベル・リスクなど、人々へのインパクトが財務リスクにつながる固有の経路を開示枠組みの内容に反映させていく方針です。

人的資本に関するリスクと機会の開示基準の策定を検討しているISSBとの比較では、TISFDの開示対象はより広範なものとなっています。冒頭で紹介しました通り、TISFDが開示対象とする「人々」の範囲は、(ISSBが対象とする)自社の従業員やバリューチェーン上の従業員だけではなく、消費者や(企業や工場が立地する、あるいは原材料調達先である)地域コミュニティも含みます。また、これら人々のウェルビーイングについて、人的資本だけではなく、所得や健康状態、労働環境(安全性)も開示の対象としています。こうした違いは、ISSBがシングル・マテリアリティ(投資家にとって重要な財務マテリアリティのみ)を採用しているのに対して、TISFDがダブル・マテリアリティ(財務マテリアリティとインパクト・マテリアリティ)を採用していることと関係しています。不平等・社会課題の解決には、企業や金融機関だけではなく、市民社会や労働組織も巻き込んでいくことが重要です。実際、TISFDの運営委員会(steering committee)は、企業、金融機関、市民社会、労働組織の代表からバランスよく構成されています。市民社会や労働組織は、(投資家にとって重要な)財務マテリアリティよりも、インパクト・マテリアリティを重要する傾向にあります。

TISFDとISSBには、こうした違いがありますが、両者の相互運用性を確保していくことは非常に重要であり、緊密に連携していくことが期待されています。TISFDは、基準設定主体になることは意図しておらず、ISSBや各国法域の基準設定主体の知識パートナー(knowledge partner)として有効に活用してもらうことを目指しています。

TISFDのβ版は2026年央に、初版は2027年央に公表される見通しですので、この先2~3年間の展開をしっかりみていきたいと思います。

木村武(きむら・たけし)
日本生命保険執行役員
1989年に日本銀行入行。米国連邦準備制度理事会(FRB)金融政策局への出向を経て、企画局政策調査課長、松江支店長、金融機構局審議役、決済機構局長を歴任。この間、FSB/AGV(金融安定理事会、脆弱性分析グループ)やBIS/CPMI(国際決済銀行、決済・市場インフラ委員会)のメンバーとして活動。
2020年に日本生命保険入社、21年にPRI理事に就任(23年末に再任)、24年にTISFD Steering Committeeメンバーに就任。工学博士、経済学修士。
 
 

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