共同富裕に舵を切った中国-文化大革命に逆戻りし経済発展が止まるのか?

2022年07月19日

(三尾 幸吉郎)

1――問題の所在

習近平政権が「共同富裕(皆が共に豊かになる)」に舵を切った。そして、「共同富裕」の実現に向けて国民の自由を制限し、中国共産党による統制を強化する動きが目立ってきている。アリババ集団など巨大ネット企業などに対する独占禁止法違反を理由とした罰金の徴収、芸能人に対する税務調査強化や罰金の徴収、富裕層の財産に対する課税強化や富豪による第三次分配(高額寄付)の奨励など金持ち崇拝(拝金主義)を戒めるような動きがでてきたのに加えて、高価なことで庶民の生活を苦しめてきた"新三座大山1(教育、不動産、医療)"の退治に乗り出したりしている。さらには、習近平思想を小中高校で必修化したり、オンラインゲームでは未成年者の利用時間を制限したり、ライブ配信では芸能人などを応援する"投げ銭(おひねり)"を未成年者には禁止したりと、若年層への教育的指導も目立ってきている[図表-1]。

大成功を収めた企業家を戒めるような動きを見ると、"反革命分子"と見做された高官が三角帽子をかぶらされて自己批判したり組織的・暴力的な吊るし上げを受けたりした文化大革命を思い出す。文化・娯楽にまで教育的指導を行なうさまを見ると、伝統的な古典演劇だった京劇が文化大革命で変質し革命模範劇になったことを思い出す。さらに習近平思想の必修化と聞くと、文化大革命で紅衛兵2が常に携帯していた『毛沢東語録3』を思い出す。そして文化大革命を発動した毛沢東が唱え始めた「共同富裕」に焦点が当たり、習近平政権がその実現に向けて動き出すと宣言したことから、文化大革命へ逆戻りするのではないかとの懸念が浮上することとなった。

そこで本稿では、毛沢東時代にまでさかのぼって「共同富裕」の歴史を振り返った上で、習近平政権が目指す「共同富裕」とはどんなもので、毛沢東や鄧小平のそれとはどう違うのかを、習近平政権が公表した文書や習近平国家主席の重要講話などから分析し、中国が文化大革命に逆戻りすることはあるのか、そして「共同富裕」に向かうことで中国経済はどんな影響を受けるのかを考察することとしたい。
 
1 新民主主義革命期における中国では、庶民を苦しめる帝国主義、封建主義、官僚資本主義の3つを三座大山と呼んでいた
2 文化大革命期に毛沢東によって動員された全国的な学生運動だが工場労働者を含むこともある
3 毛沢東の著作から抜粋された短文を集めて編集した語録で、政治,思想教育を進める際の教材として使われた。文化大革命が発動された1966年に一般向けの出版が開始された。中国名は『毛主席語録』。

2――習近平政権が誕生する前の「共同富裕」

2――習近平政権が誕生する前の「共同富裕」

1|「共同富裕」と「4つの近代化」の対立
改革開放が始まる前の中国には、社会主義の本質的要求である「共同富裕」を最優先する毛沢東と、「4つの近代化(工業、農業、国防、科学技術の4つの分野で近代化を目指す改革)≒改革開放」を旗印として経済発展を最優先する鄧小平らの路線対立があった。

毛沢東が「共同富裕」という言葉を初めて使ったのは、1953年12月の中国共産党中央委員会で「中国共産党中央による農業生産協同組合の発展に関する決議(中共中央关于发展农业生产合作社的决议)」を採択したときのことである。毛沢東が用いた「共同富裕」という表現がとても分かりやすかったため、多くの農民や商工業者に受け入れられるとともに、社会主義に対する理解とあこがれを深め、社会主義の実現に向けて一般庶民を結束させる求心力となった。一方、鄧小平らは社会主義の本質的要求である「共同富裕」を尊重してはいたものの、社会主義の初級段階において「共同富裕」を目指すと「共同貧困」に陥りかねないとの懸念を持っていた4。そして、改革開放前の中国において最高指導者の地位にあった毛沢東は、「共同富裕」を損なうと考えた政策措置には断固として反対したため、1962年頃から鄧小平らが進めていた「4つの近代化」を許容することができず、1966年8月には「司令部を砲撃せよ」と題した評論を人民日報に掲載し、文化大革命を始めることとなった5

その結果、文化大革命(1966~1975年)による経済の停滞で、改革開放が始まる前の中国は極めて貧しい国となった。経済的な豊かさを示す一人当たりGDPを見ると[図表-2]、改革開放が始まった1978年の中国は156ドルで世界138ヵ国中の135位と、下にはブルンジ、ネパール、ソマリアの3ヵ国しかなかった。その20年前(1960年)には90ドルで世界101ヵ国中の84位と、下にはインドやアフガニスタンなど18ヵ国があったので、そもそも貧しかった中国がますます貧しくなったことが分かる。
 
4 鄧小平は後に歴史的経験をまとめる際、「私たちは社会主義の道を歩むことを堅持し、根本の目標は共に豊かになることである。しかし平均的な発展は不可能であり、過去に平均主義を行って、‘大鍋飯’を食べて、実際には共に立ち遅れ、共に貧しくなり、私たちはこのような損をした」と述べている
5 「改革開放」前の中国経済に関しては『3つの切り口からつかむ図解中国経済』(20~22ページ)を参照ください
2|「共同富裕」から「4つの近代化≒改革開放」へ
1976年9月に毛沢東が亡くなり、同年10月に四人組(江青・張春橋・姚文元・王洪文)が逮捕されると、文化大革命は終焉を迎えた。しかし、文化大革命が終わった後も、社会主義の本質的要求である「共同富裕」を最優先するか、それとも経済発展を最優先する「4つの近代化」かの路線対立は続いた。鄧小平らが「実践は真理を検証する唯一の基準だ」として「4つの近代化」を進めようとした一方、毛沢東の後任として最高指導者に就任していた華国鋒らが「2つのすべて(すべての毛主席の決定は断固守らねばならず、すべての毛主席の指示には忠実に従わなければならない)」を主張していたからである。

その路線対立に終止符を打ったのが「実事求是(現実に基づいて物事の真理を追究する意)」こそが毛沢東思想のエッセンスであると主張し「2つのすべて」を排除した鄧小平だった。1981年に胡耀邦が中国共産党主席に就任すると、鄧小平は「先富論」と称する基本原則を唱えて、「一部の地域や一部の人々が先に富みを得てもよく、あとで他の地域や他の人々を助けて、徐々に共同富裕に到達することにしよう」として、社会主義の本質的要求である「共同富裕」を最終的に目指すことに変わりないものの、まずは経済発展を最優先して「4つの近代化」を進めることとした。そして、広東省の深圳,珠海,汕頭と福建省のアモイを経済特区に指定するなど「一部の地域」の発展を先行させることとし、農民や企業の経営自主権を拡大してよく働き成果を挙げた「一部の人々」が富めるようにした。その結果、国民の労働意欲が高まり、中国経済は勢いよく発展し始めた。

しかし、成果を挙げた「一部の地域」や「一部の人々」が富を得て豊かになる一方、そうでない「他の地域」や「他の人々」は取り残されたため、地域間格差、都市と農村の格差、都市内の格差が広がっていった。さらに、計画経済から市場経済へ移行する過程では、権限を悪用して巨万の富を得る党幹部や官僚が増え、彼らが次第に特権階級化していくと、取り残された地域や人々の間に不満が蓄積していくこととなった。そして、1989年には天安門事件(六四)が発生、学生による民主化要求を巻き込んで過熱したため人民解放軍が武力行使する事態となり、「4つの近代化」を旗印とした改革開放は一時中断することとなった。

その後、ソビエト連邦が崩壊(1991年)して社会主義が深刻な危機に直面した1992年1~2月、鄧小平は改革開放の再起動に動き出し、武漢、深圳、珠海、上海などを視察して改革開放の重要性を説く「南巡講話」を行った。そして、1992年10月に開催された第14回共産党大会では、ソ連が失敗した原因は経済の不振にあったと総括し、「政治的には社会主義、経済的には市場経済」との方針を定め、1993年11月に開催された第14期3中全会では「社会主義市場経済体制を確立する上での若干の問題に関する決定」を採択して、改革開放への道筋を確かなものとしていった。

そして、改革開放が始まってから習近平政権誕生(2012年)までの経済成長率は年平均10%の高成長となり、一人当たりGDPではフィリピン、インドネシア、タイなどの東南アジア諸国を次々に追い越して、インドの4倍を超えるレベルに達し、2012年には6,317ドルと世界210ヵ国の中で110位と、中所得国(第3分位)へと急速に発展し、世界第2位の経済大国となった[図表-2]。
3|鄧小平の後継者たち(江沢民、胡錦涛)と「共同富裕」
1997年2月に鄧小平が亡くなったあと実権を掌握した江沢民は、鄧小平の改革開放路線や「先富論」を基本的に継承することとなった。「効率性と公平性を考慮する。市場を含む各種の調整手段を用いて、先進化を奨励し、効率を促進し、合理的に所得格差を引き離し、二極化を防止し、徐々に共同富裕を実現する」と述べており、「共同富裕」を尊重しつつもそれを先送りしている。その結果、在任中(六四天安門事件の影響が薄れた1991~2002年)の経済成長率は年平均10.2%と高成長を続けることとなった。一方、「共同富裕」に向けては西部大開発を打ち出して地域間格差の是正を目指したり、小康社会(ややゆとりのある社会)の実現に向けて努力したりしてはいたものの目立った成果を挙げることは叶わず、地域間格差、都市と農村の格差、都市内の格差は広がり[図表-3,4]、環境の悪化が進み6、腐敗・汚職の蔓延に歯止めを掛けることもできなかった。

江沢民のあとを引き継いで2002年に最高指導者となった胡錦涛は、人を基本とし持続可能な発展を目指す科学的発展観を唱え、「人民の根本的利益を党と国家のすべての活動の出発点と足場として、人民の主体的地位を尊重し、人民の最初の精神を発揮し、人民の各種の権益を保障し、共同富裕の道を歩み、人民の全面的な発展を促進し、人民のために発展し、人民によって発展し、発展の成果を人民が共有することを旨としなければならない」として、「共同富裕」をより重視した政治を実行に移した。その結果、地域間格差は大幅に縮小し、都市と農村の格差拡大や都市内の格差拡大にも歯止めが掛かり[図表-3,4]、環境汚染にも改善の兆しが見られたが7、腐敗・汚職の蔓延に歯止めを掛けることはできなかった。なお、在任中(2003~2012年)の経済成長率は年平均10.6%と高成長を続けることとなったが、その背景には2001年に世界貿易機関(WTO)に加盟したことで、輸出と対内直接投資の急拡大という追い風が吹いたことがあった。
以上のように習近平政権が誕生する前の中国では、社会主義の本質的要求である「共同富裕」か、それとも経済発展を最優先する「4つの近代化≒改革開放」かの路線対立があったものの、「共同富裕」は恒に意識せざるを得ない理念であり続けた。そして、「共同富裕」を重視する度合いをランク付けすると、毛沢東>胡錦涛>江沢民≧鄧小平という順番になると筆者は整理している。
 
6 例えばPM2.5大気汚染の平均年間暴露(マイクログラム/立方メートル)で見ると、1990年から2000年にかけては悪化傾向だった
7 例えばPM2.5大気汚染の平均年間暴露(マイクログラム/立方メートル)で見ると、2011年までは悪化傾向だったが、2012年以降は改善傾向に転じた
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