(3) 長期的に 「国際秩序」 を変容させる可能性
仮に、これら3つの取組みが奏功した場合、日本を取り巻く安全保障環境は、大きく変化する可能性がある。
例えば、中国がデジタル人民元を国外に展開した場合(すなわち、一部地域や国家全体で、当該国の通貨がデジタル人民元に代替される、いわゆる「人民元化」が進んだ場合)、中国の影響力の拡大が見込まれる。「人民元化」の手法としては、中国が一帯一路の沿線国などに対し、資金援助やインフラ整備などを引き換えとして、デジタル人民元の導入を迫るやり方があるだろう。これは、経済圏の一体化が進んでいれば、為替リスクを負わない取引や金融包摂の促進など、沿線国(途上国)の側にもメリットがある。また、自国通貨よりも信用力が高く、利便性や安全性にも優れた通貨が登場すれば、当該国の国民がデジタル人民元の使用を選択することもあり得るだろう。
この場合、中国は当該国に対する⑴ESの展開が容易になる。例えば、CBDCには、発行や流通に関わる全ての情報が記録される特徴があるため、中国当局は取引情報を解析することで、(理論的には)個人の趣味嗜好や資産の移動まで把握することができるようになる。仮に、中国が自らに批判的な外国政府要人の個人情報を把握し、故意に流出させたとすれば、スキャンダルで政権の信頼を失墜し、国民の支持を失うことになるかもしれない。また、中央管理型のシステムであるデジタル人民元は、特定の個人や地域を対象として、取引の停止や資産の凍結を行うこともできるだろう。さらに、デジタル人民元が浸透すれば、米国が多用している金融制裁を、中国が行使するようになるかもしれない。そうなれば、経済的に強く結びついた当該国の政府が、中国の意向に背くことは、さらに難しくなると考えられる。
ただ、他国通貨をデジタル人民元に置き換える「人民元化」は、国家の通貨主権(金融政策の自主性や通貨発行益など)を奪うものであり、一部の地域への浸透や他国通貨との併存はあっても、完全に代替することは、たとえ経済的な結びつきが強かったとしても相当難しい。より現実的には、中国がデジタル人民元の基盤システムを輸出し、その基盤システムを利用して、当該国が自国通貨をデジタル化する可能性の方が高いと考えられる。特に技術力や資金力の乏しい国では、中国での稼働実績を持つデジタル人民元は、自国通貨をデジタル化する際の有力な選択肢となり得るだろう。
この場合も、中国による街頭国への干渉力は強化される。例えば、中国が技術情報をブラックボックス化して輸出した場合、基盤システムにセキュリティホールが仕掛けられていれば、情報を不正に抜き出すこと、バックドアから攻撃を仕掛けることなどが容易になる。これは、米国が安全保障の観点から、一部の中国製品を政府調達から排除しているのと、同じ懸念だ。ただ、CBDCはネット特有の性質(伝播スピードや複製コストの低さなど)を有している。そのため、基盤システムが攻撃を受けた際の影響は、甚大かつ広範囲に及ぶことが予想される。
次に、デジタル人民元の技術が国際標準となった場合、デジタル領域における中国の優位性は、さらに強化されると考えられる。中国企業は、人民銀行が有する関連特許
8を用いることで、コスト競争面で有意に立てるだけでなく、その技術基盤と親和性の高いサービスを、国外に迅速に展開することも可能だ。ネットワーク効果の働きやすいデジタルサービスは、サービス展開で先行したものに有利に働く。国際標準を握ることは、中国企業の国際競争力を高め、中国の(2)経済レジリエンスを強化するだろう。また、国際標準を握ることは、技術やサービスの国際展開でも有利に働く。WTO協定には、国内規格の策定で国際規格を優先することを定めたもの
9や、政府調達の仕様を国際規格に基づくように定めたもの
10があり、ひとたび国際標準が形成されれば、各国はそれに従う必要がある。中国がデジタル人民元の国際標準化にも成功すれば、次世代の国際決済システムは、中国主導で形成されることになるだろう。
なお、中国は人民元の国際化を実現するため、2015年にオンショア-オフショア間のクロスボーダー人民元決済を行う「国際銀行間決済システム(以下、CIPS)」を稼働させている。CIPSは、米国主導の「国際銀行間通信協会(以下、SWIFT)」を迂回する代替システムであり、米国による金融制裁を回避する手段となり得る。中国国内のガバナンスが改善することで資本規制が解除され、市場の透明性や信頼性が向上して行けば、人民元に対する需要は拡大していくと考えられる。そのとき、CIPSがCBDCと連携して、利便性の高いシステムとなっていれば、SWIFTを通じて取引される国際送金の一部は、CIPSを通じて行われるようになるだろう。そうなれば、基軸通貨国として様々な恩恵(莫大な通貨発行益や為替リスクを負わない取引など)を享受している米国は、その特権の一部を失い、中国がそれを引き継ぐことになると考えられる。これは、既存の秩序を自らに都合の良い形に変えるものであり、経済安全保障における⑶ルール形成への関与そのものだ。中国が世界の信任(尊敬の念)を得て、基軸通貨国となるまでには、まだ多くの課題が残されているだろう。しかし、少なくとも、既存の通貨体制を揺さぶることにはなる。
8 中国人民銀行は、デジタル通貨に関わる130件以上の特許を保有している。なお、標準に従って財を販売する際に使用せざるを得ない特許を「標準必須特許」と呼び、特許保有者は高い使用料を課すこともできる。
9 貿易の技術的障害に関する協定(Agreement on Technical Barriers to Trade:略称TBT)
10 政府府調達に関する協定(Agreement on Government Procurement:略称GPA)
3――おわりに