パブリックコメントに関しては、世田谷区、名古屋市、大府市、知多市、草津市、神戸市の6団体が実施しており、中でも草津市はパブリックコメントでの指摘を踏まえ、「財政上の措置」を条例本文に加えたことを開示していた。
次に、認知症フレンドリー社会の理念に関する言及を見て行こう。そもそも認知症に関しては、全ての記憶や感性などを失うわけではなく、記憶を失うことの不安などがBPSD(行動・心理症状)と呼ぶれる一人歩きや暴言などを作り出す時がある。しかし、社会全体で依然として「認知症の人=何も分からなくなる人」というイメージが強いため、認知症の人の生きにくさを増幅している面がある。
このため、条例の広報的効果を発揮させる上では、「認知症の人=何も分からなくなる人」ではない事実、認知症になっても一人の人間として尊厳と権利が尊重されなければならないという理念、認知症の人が地域で暮らしやすい地域社会を作っていく重要性を認知症条例に明記する必要がある。
この点を理解する上では、世田谷区の条例が参考になる。世田谷区の条例では前文として、下記のような一文を書いている。
認知症になる「何もわからなくなってしまう」という考え方が一般的でしたが、認知症になってからも、暮らしていくうえで全ての記憶を失うわけではなく、本人の意思や感情は豊かに備わっていることが明らかになってきており、尊厳と希望を持って「自分らしく生きる」ことが可能です。
さらに条例の本文でも、認知症の人の尊厳や権利を重視する文言が随所にちりばめられている。そこで、同様の条文が定められているか調査したところ、全ての条例に「尊厳」「権利」などの言葉が盛り込まれていた。このほか、御坊市の条例でも認知症の当事者との対話を通じて、「『やさしい』って言われると、自分たちは支援される、守ってもらう立場だと感じる」という声が出たため、「認知症の人とともに築く総活躍のまち条例」という名称にしたという
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認知症の人の生きにくさに配慮する点で言うと、「予防」の記述も論点になる。例えば、政府が2019年6月に取りまとめた「認知症施策推進大綱」では、「共生」と「予防」を車の両輪に位置付けたものの、策定プロセスでは予防を前面に押し出そうとした政府の原案に対し、当事者団体から「偏見を助長し、自己責任論に結びつきかねない」という異論が出て、政府が説明と軌道修正に追われる一幕があった
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つまり、予防が必要以上に強調され過ぎると、「認知症の人=予防できなかった人」と認識されてしまい、認知症の人が普段から感じている生きにくさに拍車を掛けてしまう懸念が示されたわけである。
結局、認知症大綱では予防の意味について、運動不足の改善、糖尿病や高血圧症など生活習慣病の予防、社会参加などで発症を遅らせる可能性があるとして、「『認知症にならない』という意味ではなく、『認知症になるのを遅らせる』『認知症になっても進行を緩やかにする』という意味」と定義しており、各自治体の認知症条例における書きぶりが焦点になる。例えば、予防という言葉を書き換える方策が考えられるし、「予防」という単語を使ったとしても、条例の前半部分で「予防とは何か」という意味を十分に定義し、認知症の人の生きにくさに配慮する方策も考えられる。
そこで、各自治体の条例における「予防」の書きぶりを精査すると、世田谷区と御坊市を除く全ての条例で「予防」の文字が使われていた。その代わりに、2つの自治体では住民の役割として、備える必要性に言及している。例えば、御坊市の条例は「認知症及び認知症とともに生きていくことへの理解を深め、認知症になってからも自分らしくより良い暮らしができるための備えをしておくよう努める」という規定、世田谷区の条例は「認知症とともに生きることに希望を持ちながら、より良く暮らしていくための備えとして、認知症に関する知識を深め、自らの健康づくりに役立てるため、区、地域団体等の取組に積極的に参加するよう努める」という条文になっている。これは認知症の人の意見を聞きつつ、予防の表現を回避した結果であろう。
さらに残りの9自治体については、市の責務や住民の役割、研究会開発の文脈で予防の文言を使っていた。このうち、7自治体では言葉の意味が明確にされておらず、東浦町、草津市は「予防」の定義を条文で明らかにしていた。例えば、草津市の条例では第2条で「認知症になるのを遅らせることまたは認知症になっても進行を緩やかにすること」と定義し、市の責務、住民や地域組織の役割として、認知症の予防に繋がる活動の充実などに言及していた。
このほか、条例に関するパンフレットやリーフレット、解説資料の作成、公開という点で見ると、神戸市は特設のウエブサイトを作り、市民税引き上げや診断・損害賠償制度に関する広報資料などを掲載。草津市は条例の逐条解説を作り、条文ごとに狙いや目的、条文では盛り込めなかった部分などを解説、補足している。例えば、論争的な「予防」の言葉を用いつつ、住民の役割を定めた条文については、「『予防』とは、『認知症にならない』という意味ではなく、『認知症になるのを遅らせる』『認知症になっても進行を緩やかにする』という意味で、誰もが認知症になりうるものととらえ、認知症への備えに努めるとともに、各主体が取り組む認知症施策に協力いただくことを規定しています」と解説している。
さらに、御坊市は認知症の本人の視点から分かりやすく伝える「ガイド」、認知症条例の解説動画を作成することで、一般向けに条例の目的や狙いを丁寧に説明している。このほか、世田谷区も「今までの認知症の考え方を変える」「みんながこの先の『備え』をする」などと解説するパンフレットとともに、条例の理念や内容を解説する動画も区のウエブサイトに公開している。愛知県は条例の内容を紹介するパンフレットに加えて、事業者向け、小中学校向けパンフレットを作成している。
16 2019年10月16日医療介護福祉政策研究フォーラムにおける御坊市の谷口氏による説明資料。
17 認知症施策推進大綱を巡る経緯については、2019年8月13日拙稿「認知症大綱で何が変わるのか」を参照。