■要介護者などへの配慮が必要
先に触れた通り、健康寿命を延伸すれば、個人の生活の質が上がるだけでなく、元気な高齢者が増えることで、働ける高齢者の増加とか、医療・介護費の抑制、関連産業の育成などの効果が期待できるとされており、誰にとってもハッピーな絵が描かれています。
しかし、いくつかの論点が指摘されています。第1に、医療経済学の蓄積を見ても、健康づくりがマクロの医療費抑制に繋がることを実証した研究は少なく、どこまで費用抑制を期待できるのか分からない面があります。例えば、医療分野での実証研究が蓄積しているアメリカでは、「健康状態が改善されるだけでなく、医療費抑制効果もある医療行為(cost-savings)」は少なく、健康づくりによる医療費抑制の効果は見出しにくいとされています(津川友介『世界一わかりやすい「医療政策」の教科書』)。実際、有識者で構成する厚生労働省の「健康寿命の延伸の効果に係る研究班」による報告書(2019年3月)でも「『健康寿命の延伸により医療費にどのような影響があるか』というひとくくりの問いは、注意深く受け止める必要がある」「(筆者注:介護費に関しては)医療に比べて、より効果を期待できるのではないか」と指摘するにとどめています。
第2に、「健康」になることを強調し過ぎるマイナス面です。具体的には、健康寿命延伸の目的として、「費用抑制」を前面に出しつつ、健康づくりの重要性を強調し過ぎると、病気や障害(ここでは法令上の表記に沿って「障害」と表記します。以下同じ)のある人が「費用が掛かる人」と見なされてしまい、生きにくさを感じてしまうかもしれない点です。
実際、医療政策の専門家から「健康寿命という概念は、認知症や重度の障害者、病気を持っている『健康ではない個人』の生存権を侵害する危険があります」「健康は義務ではない。権利です。健康は義務だという考え方はナチズムと通じる」といった批判が出ています(2019年1月27日『BuzzFeed News』における日本福祉大学名誉教授の二木立氏インタビュー)。
ここで言う「ナチズム」は何やら不穏な響きですし、少し唐突な感じも受けますが、生まれて欲しい人や長生きして欲しい人を選別する「優生思想」と言い換えてもいいと思います。優生思想は1920年代~1940年代頃に注目された世界的な潮流であり、日本を含めて世界各国で障害者の断種政策などが実施されました(米本昌平ほか編著『優生学と人間社会』)。
もちろん、こうした優生思想的な考え方は現在、否定されていますが、コスト縮減のため、医療・介護を必要としない期間を伸ばす必要性を強調し過ぎると、障害者や難病の人が「社会のお荷物」のように受け止められてしまい、優生思想の要素が全面に出る危険性は認識する必要があります。
さらに、厚生労働省OBからも「(筆者注:健康づくりが)高齢者医療費の適正化という経済的価値に従属するとすれば、不健康な者・健康の保持に向けて自己管理ができない者は、文字どおり『穀潰し』(穀=経済)ということになる』」「『健康』の観念がより大きな生きづらさをもたらすことを恐れずにはいられない」との懸念が示されています(堤修三『社会保障改革の立法政策的批判』)。
第3に、国家が健康づくりを過度に強制するような事態になった場合、国民の自由を侵害する危険性がある点です。実際、「健康日本21」のウエブサイトでは《12の誤解・疑問と回答》というコーナーの中で、健康日本21が個人の自由を侵害する危険性に言及しつつ、下記のように記しています。
健康日本21は、国民に対して、健康に関する情報提供を行うとともに、個人の健康づくりのための環境整備を行うものであり、国民に対して一定の生活習慣を押しつけようとするものではない。もとより、健康のためにどのように行動するかは、基本的に国民の自由な意思に基づく選択に委ねられている。
ただ、国民の選択の前提として、生活習慣病の危険性やこれらの疾病と生活習慣との関連性のような健康に関する正確な情報が十分に提供されていることが必要である。健康日本21では、このような情報提供をその推進方策の重要な柱としている。
つまり、個人の自己決定をベースとしつつ、選択肢を広げるための情報提供、環境整備に力点を置いているとしています。言い換えると、健康寿命の延伸論議については、国家が国民に対して「健康」であるよう強制する危険性があるため、国民の自由とのバランスが欠かせないということです。
もちろん、できるだけ心身ともに「健康」な状態で長生きしたいという願望を持つのは自然な感情です。このため、こうした個々人の選択肢を広げる政策・制度が必要になるし、民間企業や市民団体が健康寿命の延伸に向けて自主的に活動する意義も大きいと思います。
しかし、費用抑制の観点に立ち、健康寿命の延伸を言い過ぎると、生まれ付きの障害や難病のある人や不治の病気になった人が生きにくさを感じるマイナス面には配慮する必要があります。
なお、今回の「ジェロントロジーを学ぼうコーナー」でも「健康寿命」を「医療・介護を必要としない状態」にとどめず、要介護状態の高齢者が自己決定できる環境づくりなども論点としています。