前述した通り見方によっては、世代論は時代遅れであり、世代で分断して語ることは不毛な場合もある。ことによっては、我々世代で言うところの「これだからゆとりは・・・」のように、世代そのものにステレオタイプなイメージを植え付けかねない。そういった中でも我々が世代論を好むのは、自分の知らない世代の存在が文字通り怖いからなのかもしれない。例えばヤフーオークションの誕生やamazonによる流通革命により、わずか20年でネットショッピングはあたかも昔から存在していたかのように、我々の購買方法の選択肢として定着した。しかし、言い換えれば20年前にはネットショッピングという選択肢は存在してはおらず、我々は市場変化に適応していったのである。一方でZ世代においては、一期生である1996年生まれが小学校に入学した時には「amazonマーケットプレイス」がオープンしており、彼らの多くは、ネットショッピングが存在していない時代を知らないのである。これは、Z世代とそれ以前の世代で消費行動そのものや、ネットショッピングに対する価値観や意識、態度、受容度が異なることを意味している。このような市場変化に限らず、若者は新規性を好み、新しいサービスや商品に対する受容度が高いことから流行やトレンドといった社会現象を生み出す中心にいる。このような新規性に適応し、時代を作っていく彼らの消費文化は、時代の流れについていけなくなったそれ以前の世代にとっては正に「未知」そのものなのである。
また、「近頃の若いもんは・・・」や「俺たちの若いころは・・・」といった常套文句も元を正せば、価値観の違いによって発せられるわけであり、その差は市場変化や社会(環境)変化によって生まれているのである。情報ソース一つとっても例えば団塊ジュニア世代までの世代にとってはマスメディアが中心であり、発信者によってスクリーニングされている情報をいわば受動的に取り入れていた。一方Z世代は、マスメディアのみならず誰もが情報を発信できるマイクロメディアが乱立し、情報の供給過剰状態に常に身を置き、社会動向を文字通り
生で傍観しているのである。またその社会動向自体の多様化に伴い、今まで「当たり前」だったことが「当たり前ではない」と認識に変化がうまれたり、マイノリティが声を上げやすい世の中にもなった。これ等の変化は紛れもない事実であり、この変化に対応していった世代と、生まれたときから新しい社会的価値観の元に身を置く世代とでは、考え方が異なるのは当然のことである。そのため「若者は何を考えているかわからない」というのはあながち間違いではなく、「未知」な存在であると世代間で一線を引いてしまうということも一種の防衛反応に近いものであると筆者は考える。
しかし、若者が「未知」であるということは何も今始まったわけではなく、前述した通り、戦後間もないアメリカの若者たちも当時の人々にとっては「未知」な存在であった。フジテレビ系列で放送していたアニメ『こちら葛飾区公園前派出所』のエンディングテーマである「おいでよ亀有」
4に
誰でも一度は子供だったけど みんな忘れてる
偉そうな顔した政治家や 目の上ブルーなおばさんも
という歌詞があるが、今若者でない世代も以前は誰しもが若者で、彼らもまた「未知」の存在だったのである。世代論の焦点はここにあると筆者は考えている。
結局若者(市場)が注目を浴びるのは、未知であるから魅力であり、彼らが担う未来に期待しているからではないだろうか。Zであろうがその後に控えるαであろうが、本質はロバート・キャパがつけた「X」が表しているのだろう。
4 作詞ラサール石井 作曲佐橋俊彦 日本コロムビア