2――医療軍備拡張競争(医療軍拡)とは何か
1|医療サービスの特性
日本の医療提供体制では、患者が自由に医療機関を選べる「フリーアクセス」を採用しており、民間医療機関が患者獲得を巡って争っている。さらに、民間の開業医が病院に発展した歴史があるため、1次、2次、3次といった医療機能の区分
1も不明確であり、診療所だけでなく大病院も外来を受け付けていることで、医療機関同士が激しく競争している。こうしたシステムは医療機関の経営効率化を促している可能性があり、一概に競争の効果を全て否定できない。
しかし、医療は通常の財やサービスと異なる特性を持っている。第1に、医療は患者-医師の間に情報の非対称性が大きく、患者は医療の質を直接評価しにくいため、医療機関を選択する際にサービスの質ではなく、施設の大きさや設備の豪華さなど外形的な情報に頼っているとされる
2。この結果、医療機関の競争が設備投資や人員配置を過度に充実させる方向に働く可能性がある。
第2に、通常の財やサービスであれば、最新鋭の技術を用いた機器を導入すると、生産性が向上するため、価格が下がる可能性があるが、公的医療サービスの場合、その価格は公定であり、むしろ検査や診察を通じて医療機関が設備投資や維持管理の費用を回収しようとする行動に出れば、医療費が増える可能性がある
3。
こうした医師や医療機関の行動を考える際、通常の企業とは異なる点に留意する必要がある。通常の企業であれば利潤最大化を目標に投資が行われるが、医療提供者には「より良い医療を提供したい」という意識が強い。この結果、利潤最大化よりも損益分岐点まで投資する傾向があり、収入と支出が等しくなる近辺まで投資が行われやすい
4。
以上のような特性を踏まえると、医療機関同士の競争が必要以上に投資を拡大させる方向に働き、医療費を増やしている可能性がある。
競争が投資を招き、医療費を増やす現象は冷戦期の米ソ軍拡競争になぞらえて、「医療軍備拡張競争」(Medical Arms Race、医療軍拡)と呼ばれている。医療軍拡は1970年代頃からアメリカで議論され、近年では出来高払いの下では高額な外科用医療ロボットを導入した地域では他の医療機関も同様のロボットを持ちたがる傾向が明らかになっている
5。
1 通常、1次医療は「プライマリ・ケア」と呼ばれる日常的な疾病やケガ、2次医療は1次医療で対応できない医療、3次医療は2次医療で対応できない高度な医療を指す。詳細は第4回で述べる。
2 いくつかの研究がこの可能性を示唆している。松嶋大ほか(2009)「紹介状を持参しない大規模病院初診患者の特性とその受診理由」『医療の質・安全学会誌』Vol.4 No.4では、紹介状を持参しない患者が受診した理由として、「すぐに検査ができる」「設備が良い」という答えが有意だった。
3 こうした行動を説明する理論として、医療経済学では患者のニーズだけでなく、医師の判断や行動が医療需要を作り出しているという「医師誘発需要」(Physician induced demand)仮説が論じられている。
4 この行動は「効用最大化」(Utilization-Maximizing)モデルと呼ばれる。郡司篤晃(2001)『医療システム研究ノート』丸善プラネッツpp104-108。報酬の水準を公的に規制されている業界では、企業が利潤の拡大を企図する結果、過度の設備投入が行われてしまう「アバーチ・ジョンソン効果」も指摘されている。
5 Huilin Li et al.(2014)"Are hospitals‘keeping up with the Joneses’?"Healthcare Volume 2, Issue 2, pp152-157.