いわゆる令和の米騒動は備蓄米5㎏2000円台での売却が始められたことにより、一時的に沈静化の兆しを見せた。しかし、先に高値で落札された備蓄米をどうするかなど残された課題は多い。
日本では、古来より米は国民生活に密接に結びついた主要な食糧であった。江戸時代末期までは、各地の大名の地位や負担すべき軍事力・役務は、石高を基準として定められていたのは周知のとおりである。米一石とは140㎏~150㎏であり
1、大人一人が年間で消費する量とされている。加賀百万石は、石高に基づけば理論上は100万人分の年間食料に相当する計算となる。このように江戸時代は、幕藩体制の基盤として米本位制が取られており、他方、経済圏としては、東日本で銀本位制、西日本で金本位制が取られていた
2。経済活動の活性化に伴い藩の支出が増加する一方、寒冷化による稲作不良で農村は疲弊し、結果として多くの藩が財政難に陥った。
さて、大名は諸々の出費のために米を貨幣に変える必要があり、地方から大都市、なかでも大阪に多くの米が集められていた。諸藩は、中之島周辺の蔵屋敷に納めた年貢米を入札制によって米仲買人に売却し、落札者には米切手という1枚当たり10石の米との交換を約束した証券を発行した。この米切手には、まだ蔵屋敷に到着していない米(未着米)や将来収穫される予定の米も含まれていた。つまり米在庫が存在する現物市場と、将来の米の代表的な銘柄を帳面上で売買する先物市場が存在した。堂島米市場は、わが国における取引所の起源とされるとともに、世界における組織的な先物取引所の先駆けとして広く知られている
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堂島米市場は17世紀後半にも体制が整い、1697年に堂島に移転した。1730年、徳川8代将軍吉宗が米価引き立てのため、堂島米市場を公認した。1869年、明治政府は米価高騰を理由として堂島米市場での取引を禁止したが、翌々年には米取引の活性化のため、堂島米会所として再興した。1939年、米穀配給統制法により大阪堂島米穀取引所は廃止された
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市場の存在は需給の実勢を反映した適正な時価を算出することに役立つが、時により投機筋の動きや思惑等で米価が実情以上に高騰などすることがある。明治政府が米市場の在り方について混乱した様子からも、米価安定の難しさがうかがえる。つまり江戸時代・明治時代の昔から米価安定に為政者は悩まされてきた。
ところで、先物取引とは、将来の定められた時点(たとえば今から3か月後)での売買についてあらかじめ現時点で約束をする取引のことである。定められた時点になったときは、現物で清算するか、現物価格と約束価格の差分を清算することとなる
5。堂島米市場の先物市場では差分清算方式がとられていたとのことである
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このような先物取引は価格変動リスクを回避できるという利点がある。たとえば将来に向けて米価が下がっては困る生産事業者は先物を売り、米価が上がっては困る販売事業者は先物を買うことが想定される。
ちなみに2024年8月から、大阪の堂島取引所で米の現物・先物商品が上場されており、SBI証券などが取り扱っている
7。公開されているチャートからも、過去1年間で米価が大幅に上昇していることが確認できる
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政府にとって米価の安定は、現代においても依然として重要な政策課題と言えるだろう。