また、同じくイタリアの数学者であるラファエル・ボンベリ(Rafael Bombelli)は、1572年の著書『L'Algebra(代数学)』で、三次方程式の解法を考案していたイタリアの数学者であるシピオーネ・デル・フェッロ(Scipione del Ferro)とタルタリアの方法を用いて方程式を解いて、(現在の)+i と −i に相当する概念に特別な名前を付与し、それらが代数学でどのような役割を果たすかを示した。ボンベリはその著書の中で、(現在の)複素数に関する性質や複素数に関する算術規則を説明している。これらにより、ボンベリは虚数研究の中心的な人物とみなされている。
しかし当時は、かつての0(ゼロ)と同じように、負の数ですらあまり理解されておらず、ましてや負の数の平方根である虚数については、架空のもの、役に立たないものとみなされている状況であった。17世紀の偉大な数学者かつ哲学者であるルネ・デカルト(René Descartes)ですら、虚数の概念を否定的にとらえており、1637年の著書『La Géométrie(幾何学)』では、これをフランス語で「nombre imaginaire(想像上の数)」と名付けている。これが英語の「imaginary number」となり、日本語の「虚数」の語源になっている。「実数」が現実に存在する数であるのに対して、「虚数」は現実には存在しない数、との意味合いが込められている
6。
その後、1770年頃に、レオンハルト・オイラー(Leonhard Euler)によって、虚数単位
が導入された(これも、ラテン語の「imaginarius」の頭文字から採られている)。ただし、そのオイラーですら、負の数の平方根は数の仲間として認められるべきではない、との考え方を有していたようである。
ヨハン・カール・フリードリヒ・ガウス(Johann Carl Friedrich Gauß)は、1796年に、正十七角形が定規とコンパスだけでは作図できないことを発見しているが、この時に複素数平面のアイデアを有していたとされている。ガウスは、その後1799年に、「代数学の基本定理
7」の証明を行い
8、その後に複素数平面を導入
9している。さらにはオーギュスタン=ルイ・コーシー(Augustin Louis Cauchy)らによって、複素解析の研究も進められていった。これらの数学者の研究や貢献によって、虚数や複素数の概念が、徐々に多くの数学者や人々に受け入れられるようになっていった。
ガウスは、1831年に、複素数のことをドイツ語で「Komplexe Zahl」と名付けており、これが英語では「complex number」となった(これをそのまま翻訳すると「複合数」ということになる)。日本語の「複素数」は、日本において初めて日本人の生命表を作成したことでも有名な藤澤利喜太郎氏によって名付けられたとされている。複数の要素で構成される数、という意味合いから来ているものと思われる。
1 カルダノは賭博が好きで、1560年代に『Liber de ludo aleae(さいころあそびについて)』を執筆(発行は彼の死後の1663年)して、初めて系統的に確率論を論じたことでも知られている。
2 「偉大なる(技)術」や「大いなる技法」等と訳される。
3 一般的な四次方程式の解法は、カルダノの弟子であるルドヴィコ・フェラーリ(Ludovico Ferrari)によって発見された。
4 因みに、ガリレオ・ガリレイは、彼の孫弟子である。
5 カルダノは、解として認めていたわけではなく、形式的に解を求めれば、として2つを挙げていた。
6 漢字の「虚」は、虚しい、何もない、形だけで実質が伴わない、嘘・偽り等のネガティブな意味合いを有しているが、その名称に関わらず、現代において「虚数」及び「複素数」は必要不可欠で極めて重要な役割を果たすものとなっている。
7 「次数が 1 以上の任意の複素係数の一変数多項式には複素根が存在する」というものであるが、多項式P(x)の根は多項式方程式P(x)=0の解であることから「複素係数の一変数代数方程式は複素数の範囲で必ず解をもつ」と言うこともできる。
8 この時のガウスの証明は完全ではなかったが、後年に3つの異なる証明を与えている。
9 平面上の点としての複素数の幾何学的意義は、1797年にノルウェーの数学者であるカスパー・ウェッセル(Caspar Wessel )によって最初に記述された、とされている。