▶右上(自由度高 × 主体性高)には、イマーシブ・シアターやマーダーミステリーといった、観客自身が空間やストーリーに能動的に関与し、自ら選択・行動することで体験が成立する非傍観型コンテンツが配置される。
▶左下(自由度低 × 主体性低)には、VR体験や展示型コンテンツなど、主に視覚的な刺激を通じて没入感を得る傍観型コンテンツが位置する。
▶右下(自由度高 × 主体性低)には、世界観を再現したテーマパークやお化け屋敷などのウォークスルー型アトラクションなどが挙げられ、参加者は自分のペースで空間を探索することはできるが、ストーリーの進行や関与は限定的である。
▶左上(自由度低 × 主体性高)には、謎解きやコンカフェなどが位置づけられ、ある程度決められた設定の中で、参加者自身が考えたり演じたりする能動性が求められる体験が該当する。
視覚的演出によって強い没入感が得られる傍観型の体験もあれば、マーダーミステリーのように、自身が特定の役割になりきることで、主体的に物語へ没入する形式もある。一方で、自ら演じることや、空間内を移動することが困難な消費者にとっては、非傍観型のような高い能動性を求められる体験は負担になり得る。したがって、非傍観型、傍観型「どちらがより没入できるか」という議論は本質を捉え損ねており、不毛であると筆者は考える
2。
我々が「没入している」と感じる瞬間は、その時々で引き出される要素が異なる。たとえば、圧倒的な映像美に見とれて時間を忘れることもあれば、何かの趣味に熱中したり、夢中で創作活動をしているときにも、没頭する=没入する体験がある。同じ「没入」という言葉で語られる感覚であっても、その質や意味は一様ではない。だからこそ、コンテンツの評価を、単純に主体性や自由度の有無といった軸だけで行うべきではないのである。
たとえば、「Universal Epic Universe」と「イマーシブ・フォート東京」は、いずれも"没入体験"を重視したテーマパークであるが、その没入体験のあり方には大きな違いがある。Universal Epic Universeは、空間全体の作り込みや演出によって、ゲストを物語世界に"入り込ませる"傍観型の没入体験に近い。一方で、イマーシブ・フォート東京では、ゲスト自身が能動的に動き、選択し、物語を"ともに創っていく"非傍観型の体験が中心となる。つまり、どちらも「完全没入型」であるにもかかわらず、求められる主体性のレベルや、体験者の関与の仕方には明確な違いがある。これは、没入感というものが一元的な体験ではなく、構造や演出の設計、そして受け手の関わり方によって大きく性質を変えるものであることを示している。
また、イマーシブ・コンテンツの体験価値には、消費者の向き不向きや、その人が楽しむための前提条件が存在するため、消費者によっては、演じる事や動き回る事など主体性を求められることが、かえって満足度を下げてしまう場合もある。また、「ウィザーディング・ワールド・オブ・ハリー・ポッター」のように、細部まで作り込まれたテーマエリアであっても、原作を知らなければ、その世界観やキャラクター体験の価値を十分に味わうことは難しいかもしれない。
さらに、イマーシブ・シアターのように、俳優やキャストがその場で生み出す"ライブ感"が魅力となるコンテンツでは、演者に対するファン的な支持が体験の動機になることも多い。特定の俳優を見るために来場する観客も存在し、コンテンツそのものよりも出演者が主たる関心対象となっているケースもある。加えて、再現度の高いテーマエリアでは、「その空間で写真を撮る」ことそのものが目的となる消費スタイルも見られる。つまり、消費者自身が主役となり、映える場や空間の中で自己表現を行う「舞台性消費」や、消費対象や空間を小道具・背景のように自分を引き立てるために活用する「プロップス消費」を目的とする層も存在する。このように、没入感の源泉が多様であることは、同時にそのニーズの多様性を生み出しており、コンテンツの受容のされ方は、必ずしも提供側の意図通りに一方向ではない。
2 イマーシブと語られている、もしくは没入感を想起させるような謳い文句であっても「傍観的イマーシブ」の視点から言えば高度なデジタルテクノロジーが使われておらずお世辞にも没入感を得られるクォリティではないモノもあるだろうし、「非傍観的イマーシブ」の側面から見れば思った以上に主体的な動きを求められないモノもあるだろう。そのため、コンテンツ間で没入度合を比較することは意味を有さないと論じたが、前向きにコンテンツを消費しようとしたにも拘らずまったく没入感を得なかった場合は「没入感がなかった」と評価すべきだし、「イマーシブ・コンテンツ」を謳っていてもそのクォリティはピンからキリまであることは覚悟しておくべきである。