韓国における最低賃金制度の変遷と最近の議論について

2025年03月28日

(金 明中) 社会保障全般・財源

(2) 最低賃金に対する議論
最低賃金引き上げをめぐる賛否両論は常に存在していた。反対論者たちは、最低賃金の引き上げは失業を増やし、物価を引き上げて経済成長の足かせになると主張する。一方、賛成論者たちは、現在の最低賃金はあまりにも低すぎて、 まともな生活ができない賃金水準となっている。最低賃金を引き上げると消費支出が増え、経済成長に役立つと主張する。1988年に最低賃金が制定されて以降、最低賃金に関する最も活発な議論が行われたのは文在寅政権(大統領在任期間:2017年5月10日~2022年5月9日)の時代であるだろう。

文前大統領は、2017年の大統領選挙時に「3年(2017~2020年)以内に最低賃金を1万ウォンとする」という公約を掲げた。公約を実現するためには、2018年から毎年16%以上最低賃金を引き上げる必要があったものの、2019年の引上げ率は10.9%、さらに2020年には2.87%と当初の計画を大きく下回ることになった。さらに、2020年7月に決まった2021年の最低賃金の引き上げ率は、新型コロナウイルス感染拡大の影響もあり、1.5%と韓国で最低賃金制度が施行された1988年以降、最低を記録した。2018年は文前大統領の影響もあり(大統領には最低賃金を決定する権限は与えられていない)、労働者側の提示案が最低賃金の決定に反映されたものの、その後は使用者側と公益委員側の提示額が主に最低賃金に反映されている。

最適賃金の引き上げにブレーキがかかった理由は文政権が実施してきた「所得主導成長」政策の成果が見えない点が大きい。所得主導成長論は、家計の賃金と所得を増やし消費増加をもたらし、経済成長につなげるという理論で、ポスト・ケインズ学派のマル・ラヴォア教授(カナダ・オタワ大)とエンゲルベルト・シュトックハマー教授(英キングストン大)の「賃金主導型成長」に基づいている。文在寅政権は韓国に零細自営業者が多い点を考慮し、賃金の代わりに所得という言葉を使い、最低賃金の引き上げや社会保障政策の強化による所得増加と格差解消を推進してきたものの、なかなか期待ほどの結果は出なかった。

むしろ、最低賃金が2年間で29%も引き上げられたことにより、経営体力の弱い自営業者は、人件費負担増に耐えかねて雇用者を減らした。一部の食堂では週休手当が発生しないようにアルバイトの時間を週15時間未満に制限した。韓国の大型ディスカウント店「eーマート」が運営するコンビニエンスストア「eマート24」は無人店舗数を次々と増やした。

「eマート24」のような大手コンビニが無人店舗拡大に走ったのは、スマートフォンを使った決済や人工知能(AI)による顔認証技術の発達など、技術の進歩を反映した面もあるが、最低賃金の大幅な引き上げによる人件費負担も要因になっていただろう。

文前大統領が最低賃金の大幅引き上げを推進した頃、最低賃金については相反する推計結果や主張が発表された。国会予算決算特別委員会(2019)は、「最低賃金の引き上げで賃金水準が高くなり、競争国に対する賃金競争力が弱まり、労働者数の減少が累積で2018年に9万2000人、2019年に23万5000人、2020年に42万7000人、2021年に62万9000人に達すると推定した。

一方、韓国開発研究院(2018)は、「最低賃金引き上げが雇用に及ぼす影響」という報告書で「経済学における雇用の賃金弾力性は−0.3(個別企業の賃金が10%上昇すると、雇用は約3%減少する)と言われているが、これは他の企業と競争関係にある個別企業が賃金は上がるのに、価格の引き上げは難しいので、生産コストを下げるために雇用を減らすことであり、最低賃金はすべての賃金が同時に均等に上昇するため、競争を心配することなく価格を引き上げることができ、雇用減少の規模は小さい」と主張した。また、「最低賃金をめぐる誤解は、経済全体にわたる賃金引き上げと個別企業の賃金引き上げの効果を混同することから始まった」と説明した。

最低賃金が雇用に与える影響についても専門家の意見が分かれた。ホン・ミンギ(2018)は、最低賃金の引き上げが2018年1月から3月までの雇用量と労働時間に与えた影響を推計し、雇用量に与える効果は統計的に有意ではないと発表した。また、韓国労働研究院(2018)では、「最低賃金は限界に直面した一部の部門で部分的に雇用に否定的な効果をもたらした可能性はあるものの、上半期の雇用鈍化の主な要因ではないと判断される」と主張した。

一方、チェ・ギョンス(2018)は2018年6月4日に最低賃金と関連した報告書を発表し、「最低賃金引き上げの速度調節論」を提起した。この報告書では、最低賃金を毎年15%ずつ引き上げると、最悪の場合、2019年には9.6万人、2020年には14.4万人まで雇用が減少する恐れがあるという推計結果を出した。

 では、尹錫悦政権になってからはどうなっただろうか?尹政権は文政権とは異なり基本的に小さな政府とビジネスフレンドリー政策を重視している。韓国政府の「2024年度租税支出予算書」によると、尹政権が発足した2022年における企業に対する国税減免額のうち、大企業が占める割合は16.5%で、2021年の10.9%より5.6ポイントも増加した。さらに、大企業が占める割合は2024年には21.6%まで増加すると予想されている。一方、個人に対する国税減免額のうち、高所得者に占める割合は2021年の28.9%から2022年には31.7%に増加し、2024年には33.4%まで増加すると推計された。

尹錫悦大統領は「大企業の貪欲な労働組合が高収入を得ることで労働市場の二極化15が発生しているので、組合の腐敗を撲滅しなければならない」と労働組合について否定的な意識を持っている。また、2022年12月に開かれた非常経済民生会議では「労働改革を進める上で、労働組合の腐敗も公職の腐敗、企業の腐敗と共に韓国社会で撲滅すべき3大腐敗の一つである」と述べる等労働組合に対しては批判的な立場を維持しており、最低賃金に対しても労働者側の意見より使用者側の意見を重視している。このような考えは最低賃金の引き上げ率にも影響を与えた。つまり、2025年の最低賃金の対前年比引き上げ率1.7%は、新型コロナウイルスの感染拡大により史上最低の引き上げ率を記録した2021年(1.5%)の引き上げ率に続き2番目に低い引き上げ率である。物価上昇率にも及ばない引き上げ率だと批判された2024年の引き上げ率2.5%よりも低く、経済成長率がマイナス5.5%まで低下した1998年のアジア金融危機直後の2.75%よりも低い。さらに、2024年と2025年の物価上昇率の予想値2.6%と2.1%より低く、このままでは最低賃金の影響を受ける労働者の実質賃金の減少につながり、格差が拡大する可能性が高い16

2025年の最低賃金の引き上げに対しては、使用者側と労働者側共に不満な様子を表している。韓国経済人協会は7月12日に発表した「2025年度最低賃金決定に対する立場」で、「多くの自営業者が経営難で来年の最低賃金の凍結又は引き下げを望んでいるにもかかわらず、2025年の最低賃金が1.7%引き上げられた1万30ウォンに決定されたことについて残念に思う。(中略)今後、最低賃金の合理的な決定のためにも、使用者の支払能力、生産性などを優先的に考慮し、業種別の最低賃金適用など、現実を反映した制度改善案が早急に実現されることを期待する。」と言及した17

一方、韓国労総は、来年度の最低賃金が決定された直後に、「限られた条件の中で決定された時給で、残念な結果である。(中略)公益委員は、労働界が最低賃金決定基準に基づき提案した労働者の生計費などは無視し、労使間の意見の隔たりが縮小している状況だったにもかかわらず、無理矢理結論を出そうとした。韓国労総は、低賃金労働者の賃金引き上げのための苦肉の策として投票に参加した。」と述べた18

そして、民主労総はホームページに公開した声明で「最低賃金制度が形骸化するしかない現在の決定構造が最も大きな問題である。労使が攻防を繰り広げ、最終的に公益委員が「政府の意志」を実現する現在の最低賃金委員会の議論構造では、現実的に意味のある最低賃金を決定することは不可能である。(中略)民主労総は、現行の最低賃金委員会の決定構造では、低賃金労働者の生活安定という最低賃金制度の本来の趣旨を達成できないことを、今回の最低賃金委員会会議の過程で切実に確認した。民主労総は、最低賃金決定構造をより現実的かつ合理的に変える制度改善闘争に直ちに突入する。これ以上、低賃金労働者の生活を政府の意向に合わせることに急いでいる公益委員たちに任せることはできない。」と現行の最低賃金委員会の決定構造を強く批判した19

最低賃金に関する意見の違いは歴代政権からも確認できる。実際、1988年に最低賃金が施行されてからの政権別対前年比最低賃金の引き上げ率を見ると、保守政権時代よりは進歩政権時代の引き上げ率が相対的に高いという結果が出た(図表8)。

しかし、保守政権である盧泰愚政権時代の1989年の対前年比引き上げ率は29.7%(1グループ)で最も高い数値を記録した。この時に最低賃金の対前年比引き上げ率が高かった理由としては、最低賃金を導入した1988年の最低賃金の水準がかなり低く設定されていたので引き上げ率を高く設定したこと20と、二つのグループ(1グループである繊維・食料品など12業種の最低賃金は462.5ウォン、2グループであるタバコ・化学など16業種の最低賃金は487.5ウォン)に分かれていた最低賃金を一つに統一するために最低賃金が低かった1グループの引き上げ率を高く設定せざるをえなかったという時代的な背景がある。
 
15 韓国における労働市場は、一次労働市場と二次労働市場に区分することができる。一次労働市場は、相対的に高い賃金、良い労働環境、高い雇用の安定性、労働組合による保護、制度化された労使関係、長期的な雇用契約、内部労働市場による労働力の補充などが特徴づけられることに比べて、二次労働市場は、相対的に低い賃金、劣悪な労働環境、不安定な雇用、制度化されていない労使関係、外部労働市場による労働力の補充などが特徴づけられる。
16 消費者物価は2022年と2023年にはそれぞれ5.1%と3.6%が上昇した。また、2024年1月から7月までの消費者物価は対前年同月より平均2.8%上昇した。
17 Business Post(2024)から引用。
18 聯合ニュース(2024) から引用。
19 全国民主労働組合総連盟(2024) から引用。
20 1988年当時のタバコ1箱が約600ウォン、地下鉄料金が200ウォン程度だったことを考慮すると、当時の最低賃金は非常に低かったことが分かる。

生活研究部   上席研究員・ヘルスケアリサーチセンター・ジェロントロジー推進室兼任

金 明中(きむ みょんじゅん)

研究領域:社会保障制度

研究・専門分野
高齢者雇用、不安定労働、働き方改革、貧困・格差、日韓社会政策比較、日韓経済比較、人的資源管理、基礎統計

経歴

プロフィール
【職歴】
独立行政法人労働政策研究・研修機構アシスタント・フェロー、日本経済研究センター研究員を経て、2008年9月ニッセイ基礎研究所へ、2023年7月から現職

・2011年~ 日本女子大学非常勤講師
・2015年~ 日本女子大学現代女性キャリア研究所特任研究員
・2021年~ 横浜市立大学非常勤講師
・2021年~ 専修大学非常勤講師
・2021年~ 日本大学非常勤講師
・2022年~ 亜細亜大学都市創造学部特任准教授
・2022年~ 慶應義塾大学非常勤講師
・2024年~ 関東学院大学非常勤講師

・2019年  労働政策研究会議準備委員会準備委員
       東アジア経済経営学会理事
・2021年  第36回韓日経済経営国際学術大会準備委員会準備委員

【加入団体等】
・日本経済学会
・日本労務学会
・社会政策学会
・日本労使関係研究協会
・東アジア経済経営学会
・現代韓国朝鮮学会
・韓国人事管理学会
・博士(慶應義塾大学、商学)

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