冒頭でも触れたが、WHO(世界保健機関)の世界保健機関憲章の前文にある定義によれば、健康とは、怪我や病気といった肉体的なことだけでなく、精神的にも、社会的にも、満たされている状態と定義されている。この定義によれば、生存維持
4を目的とする生理的欲求を満たす「必要不可欠な消費」だけではなく、「必要不可欠ではない」消費も健康な状態でいるための要素に含まれることになる。消費することで快楽を追求することが一般的になり、消費することが社会における関心事の中心になった大衆消費社会においては、我々は生理的欲求を満たすための「必要不可欠な消費」は十分に実現しており
5、自分の好みの食べ物をおなかいっぱい食べ、寒さ暑さを凌ぐといったことよりも、のども乾いてないけどスタバで新作のフラペチーノに舌鼓を打ったり、デザイン性やブランドを重視して服を選んでいる。つまり、我々の消費における関心事は、今や生命維持を目的としない「必要不可欠ではない消費」の追求にあるのである。この「必要不可欠ではない消費」だが、筆者は2つの側面があると考えている。
まず、①外部刺激を受けて必要に駆られる消費である。WHOによれば、社会的に満たされることが健康な状態を満たす要件のひとつとなっているが
6、これは対人関係においても、社会と自身の接点においても、満たされた状態のことであり、我々の健康は人々と良好な関係を築いたり、世間に取り残されているという感覚を抱かないことで成立するといえる。消費は、社会的に満たされた状態を追求する手段という側面を擁しており、例えばコミュニティの協調や繋がり意識を求めて消費されるコンテンツや人と交流するために設けられる場への消費などが挙げられるだろう。
我々のコミュニケーションはコンテンツをベース(媒介)に行われている事がほとんどだ。自分に興味がなくとも他人と良好な関係を築くためにコンテンツや時事ネタ、流行をタスクのように消費する必要がある。また、他人との差異化や帰属意識を求めて消費されるステータス消費やブランド消費、実際はどこでも会話できるのにわざわざカフェに入ったり、レストランでドリンクバーを注文してその場に居座るための権利を得る消費など、そこで消費されているモノは、物であると同時に、場所であり、機会であり、時であり、他人との「交流」なのであって、他人を意識しなければ発生し得ない消費といえる。つまり、交流的価値を目的とした消費というのは、その使用価値から得られる効用を期待しているわけではなく、その消費をきっかけに生まれる人々とのコミュニケーションや他人へのメッセージなのである。そのため、その消費は、自身の精神的充足に起因している訳ではなく、外部刺激(他人・社会)を受けて必要に駆られた社会的満足感を充足するための消費なのだ。
消費による直接効用(使用価値)が自身の精神的充足に繋がるのならば、消費は主体性を持って消費されるが、他人との交流といういわば副次的な効用自体が期待される消費は、主体性を持って消費されるのではなく、昨今で言うタイパやコスパを追求した
何か省けるところは省きたいという合理性追求の消費になる一方で、社会的に満たされることに大きな関心があるため、このような「交流的価値」と呼ばれる他者とのつながりを生む消費(こと)に対して熱心になるのである。
2つ目の「必要不可欠ではない消費」は、②使用価値や体験価値が直接精神的充足に繋がる消費である。例えばオタクは、自身の好きなモノを消費することが、自身にとっての大きな関心事となり、それを消費している時や所有しているという事実が安寧感や居心地の良さを生み、精神的な満足や幸福感を感じている。まさに消費した使用価値が直接精神的充足に繋がっている訳だ。オタクのようなコンテンツ消費に限らず、食一つとっても、生きるために食べるといういわば最低限の目的が実現されると、よりヘルシーなモノを、より珍しいモノを、よりオシャレなモノをと、食べることに付随する「何か」が目的となり、それを達成することが精神的充足に繋がる者もいるのである。
また、人とのつながりそのものが精神的充足に繋がる消費も存在する。例えば大切な人との食事や外出はその人と過ごす時間そのものが精神的充足につながる。人とのつながりを目的とした交流的価値の追求が精神的充足に繋がることもあると言えるだろう
7。
併せて自身にとってのライフイベントや人生の転換期など、人は何かを達成したり、思い入りがある事柄に対して、慈しみや愛しさなどの自分にしか見出すことができない価値を見出す。それに伴う支出や計画にかける時間も自分にとって精神的な充足に繋がる消費となることもある。
いずれにしてもこれらは、自分自身の存在が消費動機の中核にあり、だからこそ消費したことによるモノやサービスから得られる直接効用や消費された時間は精神的充足に繋がるのである。前述①のように、交流的価値は充足するが必ずしも精神的充足に繋がるわけではない消費は、「
じゃないモノ消費」と言ってもいいかもしれない。
もし我々が合理的に行動するのであれば②の精神的充足に繋がる自身を満たしてくれる消費のみが追求されるはずではあるが、自分だけの殻にこもっているだけでは孤独になってしまう(社会的に良好な状態でない)ため、実際はそれを回避するために「じゃないモノ消費」に対する関心度も高まることになる。