5|
「多様性と個性を受け入れ、活かす」時代へ
ここで、エクイティについてあらためて強調したい。「ダイバーシティ、エクイティ&インクルージョン(DEI)」と並べて語られることからもわかるように、エクイティの前提には「多様性と個性を受け入れ、活かす」価値観が欠かせない。「多様性と個性を受け入れ、活かす」世界は、確実に実現へと近づきつつある。
しかし同時に、まだまだ長い道のりが続いていくであろうことも、私たちは理解している。そもそも私たちは「多様な個性、多様な価値観に気づいてすらいない」「不公平・不公正に苦しむ人々が、見えてもいない」そんな段階にあるからである。
筆者に、そのことを端的に教えてくれた本に、『目の見えない人は世界をどう見ているのか』がある。この本の中で、著者の伊藤亜紗さんは、目が見える人と目が見えない人とでは、同じ「富士山」でも、頭の中に思い浮かべるものが違う、と指摘している。
「見えない人にとって富士山は、『上がちょっと欠けた円すい形』をしています。いや、実際に富士山は上がちょっと欠けた円すい形をしているわけですが、見える人はたいていそのようにとらえてはいないはずです。
見える人にとって、富士山とはまずもって『八の字の末広がり』です。つまり『上が欠けた円すい形』ではなく『上が欠けた三角形』としてイメージしている。平面的なのです」
筆者は山梨出身なので富士山には馴染みがあるが、これは思いも寄らない指摘であった。しかし、本当に感銘を受けたのは、その後のくだりである。
「見える人は三次元のものを二次元化してとらえ、見えない人は三次元のままとらえている。つまり、前者は平面的なイメージとして、後者は空間の中でとらえている。
だとすると、そもそも空間を空間として理解しているのは、見えない人だけなのではないか、という気さえしてきます。見えない人は、厳密な意味で、見える人が見ているような『二次元的なイメージ』を持っていない。でもだからこそ、空間を空間として理解することができるのではないか。
なぜそう思えるかというと、視覚を使う限り、『視点』というものが存在するからです。視点、つまり『どこから空間や物を見るか』です。『自分がいる場所』と言ってもいい」
「要するに、見えない人には『死角』がないのです。これに対して見える人は、見ようとする限り、必ず見えない場所が生まれてしまう。そして見えない死角になっている場所については『たぶんこうなっているんだろう』という想像によって補足するしかない」
見える人には必ず死角がある。筆者が見ていた富士山も、山梨県側から見えた富士山でしかなかった。静岡県側から見れば、また違う富士山の姿があるはずで、正確には、視点の数だけ、富士山の姿がある、というべきであろう。しかし、筆者はそのことを想像しようともせず、自分の視点から見た富士山の姿を、当たり前のものとして生きてきた。すべての人が自分と同じ富士山を見ているものと思っていた。
3――日本に必要な「国家としてのグランドデザイン