1|英国における社会的処方の淵源と定義
社会的処方について、モデル事業を実施する――。今年7月に閣議決定された骨太方針で、こうした文言が盛り込まれた
1。骨太方針に至る政府、自民党内の議論、あるいは制度化に向けた現在の検討状況は後に回すとして、社会的処方の概要を最初に整理しよう
2。社会的処方はsocial prescribingの翻訳であり、源流は英国に求められる。英国の医療保障制度であるNHS(国民保健サービス、National Health Service)のウエブサイトを見ると、以下のような形で社会的処方が説明されている(訳文は筆者)。
社会的処方とは、個人に最適化されたケアを提供する構成要素の一つである。社会的処方はローカルな諸機関にとって、人々をリンクワーカー(link worker)に紹介する方法である。リンクワーカー達は「何が私にとって大事なのか」に焦点を当て、人々の健康と幸福に関して全体的なアプローチを取りつつ、人々に時間を提供する。リンクワーカー達は人々をコミュニティのグループや法定サービスと結び付け、実践的で感情にあふれた支援を提供する。
つまり、社会的処方とはリンクワーカーを通じて、コミュニティのグループなどの社会資源を紹介することで、その人の健康状態や満足度を高めることを企図している。英国内では元々、1980~1990年代からコミュニティレベルで取り組みがなされていたが、2006年の政府文書‘Our health, our care, our say’で示されたのを受けて、関心が集まるようになった。
しかし、こうした抽象的な説明では伝え切れないし、リンクワーカーという存在も説明しなければならないため、具体的な事例を幾つか紹介しよう。
まず、筆者が5年前、英国で働く日本人家庭医(GP、General Practitioner)の澤憲明氏から聞いた話である
3。英国の医療制度で家庭医は全人的かつ継続的なケアを提供する「プライマリ・ケア」の担い手として、患者の生活・健康を支援する上で重要な役割を果たしており、様々な症例・状況の患者と接している。
そうした中、澤氏は症例件数の少ない難病の患者と接した際、その患者の雰囲気や言葉を通じて、難病の苦労を周囲に理解してもらえない寂しさに気付いたという。さらに、澤氏が悩みを話し合えるような患者団体の存在を尋ねたところ、その患者は「患者団体の会費が払えないので、参加できない」と訴えた。そこで、澤氏は患者団体に電話し、会費の値下げを約束させたという。その後、患者は患者団体に足を運んだらしく、暫らくして患者が診療所を再訪した際、「今は同じ状況にいる友達ができて幸せ。ありがとう」と喜んだとのことである。
この事例を通じて、社会資源を紹介する社会的処方の概略と意義をご理解いただけると思う。つまり、この患者にとっては難病という医学的な問題は解決していないかもしれないが、薬や医学的な処置の代わりに、病気の悩みを分かち合える患者団体を紹介してもらうことで、QOL(生活の質)が向上したことになる。
実際、NHSのウエブサイトを見ても、社会的処方の主な対象として、慢性疾患などで長期的に支援を要する人、メンタルヘルス面での支援が必要な人、孤立・孤独を感じている人、複雑な問題を持った人を例示している。例えば、仕事のストレスや孤独感で不眠を訴えている人に対し、睡眠薬を処方しても対症療法に過ぎず、不眠を解決しようとすると、ストレスを生み出している原因を考える必要がある。そこで、社会的処方の考え方に立てば、患者の趣味や生き甲斐に近いサークルやコミュニティカフェなどを紹介することで、そのストレスを解消する方策が考えられる。
しかし、医師がコミュニティのサークルやグループを知っているとは限らない。むしろ、こうした社会資源を知っているのはコミュニティで暮らす人々であり、GPから紹介を受けた非医療職の住民が社会資源の紹介を受け持つ。これが上記で言う「リンクワーカー」である。英国医師会の資料ではリンクワーカーの役割について、GPや患者、患者の家族をボランティアやコミュニティレベルのサービスに繋ぐことと紹介しており、ビジネスや就労支援などを通じて社会課題の解決を図る「社会的企業」(social enterprise)も「処方先」の対象として挙げている。
実際、澤氏の論考
4では社会的処方を実践した事例として、下記のようなケースを挙げている。
- 往診を頻繁に要請する高齢女性に対し、訪問を重ねるうちに、その訴えの裏に孤独があることが分かり、女性の趣味に合わせて散歩クラブを紹介した。
- うつ病、不安症、睡眠障害、アルコール依存などで相談に来る中年男性に対し、リンクワーカーを通じて生活保護の申請をサポートしてもらった。さらに孤独による不安も明らかになったため、リンクワーカーからソーシャルクラブを紹介してもらった。
以上のような事例を通じて、社会的処方やリンクワーカーのイメージをつかんで頂けたと思う。そのイメージは図1の通りであり、こうした社会的処方は英国の保健福祉政策の一環としても重視されている。具体的には、リンクワーカーに対して、財政的な支援が講じられるようになったほか、澤氏の診療所では電子カルテを通じて、リンクワーカーへの紹介情報、あるいは地域資源を紹介したリンクワーカーからの情報が電子カルテを通じて、関係者で共有されているという。さらに、GPやプライマリ・ケアの将来像を描いた2016年の政府文書"General practice Forward View"でも、実践的でコミュニティに機軸を置いた形での支援が可能にすると指摘している。
このほか、同様の取り組みがオランダやオーストラリアでも始まっている。このうち、オランダでは住民で構成する「ソーシャルヴァイクチーム(SWT、社会近隣チーム)」を中心とした地域の支え合いの取り組みについて、患者の相談を幅広く受け付けるオランダのGPが関与するようになっているという。