では、なぜ若者から"み"は支持されているのだろうか。茂木(2018)によれば若者言葉で重視される面白さや新鮮さが動機になっているという。そもそも、若者言葉とは、「若者」という一種の特定集団に使用される「集団語」と定義されており、会話の「ノリ」を大切にした言葉の娯楽の一種として考えられている。ネットスラングを想起するとわかりやすいかもしれない。2000年代初頭から多くのユーザーが使用していた匿名掲示板「2ちゃんねる」では、当て字や語呂を使用する掲示板ユーザーのみで使用される隠語(スラング)が存在していた。隠語を使用することは一種の儀礼的・形式的な作用を持ち、自身がその共同体に身を置いていることを再認識させる効果もあったが
8,9、それ以上に会話のノリや形式(お決まりの流れ)を楽しむという目的が大きかったように感じられる。そういった所謂
2ちゃん語は、スマートフォンの登場により、そのノリがSNS上へと拡大したことやNAVERまとめのようなインターネット上の多様な情報が収集されるキュレーションサービスなどによって、2ちゃんねるユーザーでない人々が目にする機会も増えた。そのため2ちゃんねる発祥のスラングが若者に支持され、現実社会で使われるということも度々あった。本レポートで取り上げた"新しいみ形"においても、その発生は異なるが、「○○み」という語感やその面白さからSNSというネット文化から現実社会へ場が推移した構造は類似していると考えられるだろう。
また、桑本 (2003)
10が現代の若者言葉の主要な特徴として「曖昧な表現」と挙げているように、"み"の持つ曖昧さが支持されていると考えることもできる。冒頭の「わたし的」を含め、曖昧な表現で全体の意味や主張をぼかすという手法は、若者言葉に多く見られるものである。例えば以下のような若者言葉を我々も自然と受容しているのではないだろうか。
かな・みたいな・感じ・とか・かも・~っぽい・ある意味・~じゃないですか・的・系・普通に
いずれも「~かも」や「~っぽい」といった断言、断定を避ける一種の腕曲な表現であると言える。断定しないことで、具体性や輪郭をぼやかし、ニュアンスを伝えることができる。これは、自身と伝える相手との間にある感覚のずれを生じさせないという作用がある。「おいしい」という感覚一つとっても、「それは、おいしいです。」と伝えた場合、情報を受け取った側は、断定された情報からその食べ物に対して絶対的な期待をするでしょう。しかし、いざ食べて
絶品でなかった場合、その人は期待を裏切られたと感じるでしょう。我々がよく口にする「そうでもなかったね。」という感想が正にこの感情だと思われる。しかし、同じものを食べても最初に「おいしい的な」や「普通においしい」と伝えられていた場合、腕曲に自身と相手の嗜好の違いがあることや自分の意見ではなく一般的にそう言われているというニュアンスが含まれるため、情報を伝えられた側は期待しすぎず、いざ食べてみて好みでなかったとしても「こんなもんだろう。」という一種の肯定的な感情が生まれるのである。明言化しないことは、情報を発信する側の責任の所在を曖昧にしたり、情報を受け取る側にその情報に対する評価の余地を与えることとなるのである。
"み"も同様に「曖昧な表現」である。接尾辞"み"は、うまみ、痛みなど、『具体的な感覚』を表すものである。そのため、ある種の感覚や感情、状態を表現する際に、その要素に"み"を付加することで、その感覚や感情を体系化することができるのである。この体系化された感覚や感情、状態は、ニュアンスであり、コンテクストから情報を受け取った側が肌感覚でその情報を処理することを委ねられるのである。また、逆を返すと伝える側が形容できなかった情報を"み"をつけることで無責任に伝達することができ、情報の受け取る側の感覚に依拠した形でコミュニケーションをとることも可能であるということである。この感覚や雰囲気に重きを置いた曖昧な情報伝達構造こそ"み"が支持される理由であると筆者は考える。
8 北田暁大(2002)『東京―その誕生と死』広済堂ライブラリー
9 鈴木謙介(2002)『暴走するインターネット―ネット社会に何が起きているか』 イーストプレス
10 桑本裕二(2003)「若者ことばの発生と定着について」『秋田工業高等専門学校研究紀要』38号, pp. 113-120
6――昔も今も若者は