1|戦争と健康の関係
次に、健康観の変化を踏まえて、健康づくりの政策はどう変わるべきだろうか。実は、昭和戦前期には国民の健康を国策に活用しようとする「不健康」な歴史があり、その教訓から学ぶ必要がある。
まず、明治期以前の歴史を振り返っても、朝廷や幕府が国民の健康づくりに積極的に乗り出した形跡は見受けられない
19。そして明治期以前は専ら「養生」という言葉が使われており、「健康」という言葉を使い始めたのは江戸末期の医師、高野長英か緒方洪庵と言われている
20。その後、最初の近代医事法規として、明治維新から7年経った1874年に発布された「医制」は「国民の健康を保護し、疾病を治療し及びその学を隆興すること」として、国民の「健康」保護を言及しているので、「健康」という言葉自体は明治初期までに人口に膾炙するようになったと見られる。
ただ、政府が国民の健康づくりに本格的に関心を持ったのは大正期以降であろう。例えば、1911年に工場法(施行は1916年)、1922年に健康保険法(施行は1927年)が創設された背景には「工女」と呼ばれた女性労働者の健康悪化があった。当時、日本の資本主義を支えた紡績工場や製糸工場では、未成年も含めた女子労働者が数多く働いており、劣悪な環境と長時間労働で結核になるケースが多かった。つまり、労働者保護を図ることを通じて、国家が国民の健康づくりに乗り出したと言える。
昭和初期に入ると、国家統制の色彩が濃くなる。その典型例が厚生労働省の前身、厚生省の創設である
21。1938年に厚生省が設立された背景には「健兵健民」、つまり健康な兵士と健康な国民を作る意図があった。それを理解する手掛かりとして、当時の近衛文麿内閣が1937年7月に作成した公文書の一節を以下に示す(送り仮名や句読点を追加、片仮名を平仮名に変更)。
国民の健康を増進し、体位の向上を図り、以て国民の精神力及び活動力の源泉を維持培養し、産業経済及び非常時国防の根基を確立するは国家百年の大計にして、特に国力の飛躍的増進を急務とする現下内外の状勢に鑑み、喫緊の要務たり。(略)この際、特に一省を設けて急速かつ徹底的に国民の健康を増進し、体位の向上を計るは国家焦眉の急務なりとす。
つまり、国民の健康増進と体力、精神力の向上を通じて、経済や国防の発展を目指すことが重要であると論じており、そのための施策として体力増強を図る中央省庁の設置が浮上したのである。結局、主に内務、文部両省の事務が移管され、厚生省が発足した
22。
こうした流れを作ったのは陸軍だった。陸軍は徴兵候補となる若者の体力低下に危機感を抱き、体力向上を所管する中央省庁の創設を強く主張するようになり、陸軍青年将校が起こしたクーデター事件「2・26事件」の4カ月後の1936年6月、陸相だった寺内寿一が国民衛生や体力向上を目指す総合官庁の創設を訴えた。その後、社会政策に関心を持っていた貴族出身の近衛文麿が1937年6月に首相に就くと、この議論が加速、最終的に厚生省発足に至った。
さらに、厚生省と同じ年にスタートした国民健康保険
23(以下、国保)も健兵健民を一つの目的としていた。1937年7月の日中戦争勃発など国際情勢が緊迫化する中、総力戦を戦う手段として、国民の健康づくりに力点が置かれ、その一環として厚生省や国保が位置付けられていたことになる。
実際、厚生省が発足した当初の政策を見ると、国民の健康を国策に利用する意図を見て取れる。この点については、国民の体力増進を図る「体力局」が発足当初の筆頭局に位置付けられていたことから分かる。さらに、ナチス・ドイツの影響を受けて1940年に制定された国民優生法は「悪質な遺伝性疾患」を持つ人の増加防止と、「健全な素質」を持つ国民の増加を目指し、障害者などに対して中絶手術を実施する一方、その他の避妊手術や妊娠中絶は取り締まりを受けた。
しかし、現在の社会保障制度に繋がる政策もある。例えば、1942年に始まった「妊産婦手帳規程」は流産や死産の防止を通じて、健康な兵士になる国民を育てる意図があったが、敗戦後に「母子健康手帳」に受け継がれており、乳幼児の健康づくりに貢献している。
さらに、戦時中に設立された国保は戦後に再建され、国民全員を公的医療保険でカバーする「国民皆保険」の主軸となっており、「(注:戦時中に淵源を持つ厚生年金も含めて)わが国の社会保険制度は、大正から昭和にかけての不況や戦争が生み、育て、そしてのこしたプラスの遺産の一つ」と評価されている
24。
19 例外的な存在として、1722年に江戸幕府が設置した「小石川養生所」などが挙げられる。
20 北澤一利(2000)『「健康」の日本史』平凡社新書を参照。
21 厚生省発足の経緯については、牧野邦昭(2016)「厚生省設置と人口政策」筒井清忠編著『昭和史講義2』ちくま新書、鐘家新(1998)『日本型福祉国家の形成と「十五年戦争」』ミネルヴァ書房、厚生省五十年史編集委員会編(1988)『厚生省五十年史』厚生問題研究会などを参照。
22 当初、「保健社会省」という名称で検討されていたが、「社会」が社会主義を想起させる点などが嫌われた。結局、「衣食を十分にし、空腹や寒さに困らないようにし、民の生活を豊かにする」という中国古典の一節(正徳利用厚生)から「厚生省」と名付けられた。
23 ただ、(1)自治体直営ではなく、組合形式だった、(2)強制設立ではなく、任意設立だった――という点が現在と異なる。
24 吉原健二・和田勝(2008)『日本医療保険制度史』東洋経済新報社p108。