そもそも「推し」という言葉は、「人にすすめたいほど気に入っている人物や物」を指す言葉である。そして「推しは落ちるもの」というフレーズがオタクのあいだで使われているように、それは個人――つまり消費者――が特定の対象にのめり込み、強い感情を注いでいる状態を表す。ゆえに、この言葉の主体性や視点は、常にファン、すなわち消費者の側にあるべきだと筆者は考える。「推し」とは人生をかけて好きになり、自分にとって生きる意味の大部分を占めるほどの存在であり、生活の優先順位の最上位に置かれるものなのだ。
この「推し」という言葉に変化が生まれ始めたのは、AKB48の台頭による影響が大きいと筆者は考えている
2。AKB48が社会全体から注目を集めるようになると、2012年の選抜総選挙以降、その模様はゴールデンタイムにテレビ中継され、瞬間最高視聴率は28.0%、翌年には32.7%に達した。もはや彼女たちの序列そのものが国民的関心事となり、メディアがそれを煽るほどに、一般視聴者の間にも「自分なら誰を推すか」という擬似的な当事者意識が芽生えた。
この頃から、「推し」はオタクのあいだだけで交わされる内輪的な言葉ではなくなり、誰もが話題のフックとして使う"社会語"へと変化していった。つまり「誰推し?」と尋ねることは、特定のファンダムへの所属を示すものではなく、コミュニケーションのフックとして機能し始めたのだ。深い愛着や知識がなくても会話が成り立つ、そんな"社会語化"の過程のなかで、「推し」は情熱の象徴から日常の共通語へと変貌していったのである。実際に、「誰推し?」と仲間内で盛り上がった記憶のある読者も多いのではないだろうか。
しかし、この問いは、実際に誰かを熱心に推しているかどうかを尋ねているわけではない。むしろ「○○派」「○○が可愛い」「強いて言えば○○が好き」といった軽い選好のニュアンスで使われており、「推し」という言葉が本来もっていた熱量や一途さからは明らかに逸脱して、特定のジャンルやグループの中から"何かを選んだ結果"を指す言葉へと変化していった。つまり、深い愛着や献身の対象ではなく、選択肢の中で最も好ましいものを示すラベルとして使われるようになったのだ。
その結果、「推しラーメン」や「推しカフェ」といったように、「推し」が名詞の前に置かれ、好きなものやお気に入りを尋ねたり語ったりする文脈で使われるようになった。いまや広告やメディアでも、「推し○○」という言い回しが頻繁に見られるようになっている。しかし、そうした使われ方をすることで、「推し」はもはやその人の中で特別な存在というよりも、「このジャンルの中でならこれが好き」「とりあえずこれを選んでおけば間違いない」といった、"カテゴリー内のベター"を指す言葉へと変わりつつあるように思える。つまり、誰かを心の支えとして生きるほどの感情を表していた言葉が、いまや単に選択肢の中で"選んだ結果"を示す語としても使われるようになったのだ。もちろん、言葉の変化そのものは避けられないとしても、特別な思い入れのない"カテゴリー内のベター"を「推し」と呼ぶことには、どうしても違和感を覚える。
それが、「推し選」が象徴的な例である。もし、本当に芸能人に対して使われるような文脈で、その候補者を人生を懸けて応援している人がいるのなら話は別だが
3、よほどのことがなければ、政治家や、ましてや当選歴のない一般の候補者を「推し」と呼ぶ人はいないだろう。実際には多くの有権者が数ある選択肢の中から選ばされた"結果"を「推し」と呼ばされるにすぎない。それは若者文化に親和的であるかのように見せかけた本来の「推し」の意味とは本質的に異なる使われ方だ。
前述したとおり、推し活には強い感情が付きまとう。筆者は消費性という側面から、オタクを「自身の感情に「正」にも「負」にも大きな影響を与えるほどの依存性を見出した興味対象に対して、時間やお金を過度に消費し精神的充足を目指す人」と定義している。熱心に人生をかけて「推し活」をしている人もいれば、ガチ恋勢として推しに本気で恋をしている人もいる。引退や結婚などのニュースで立ち直れないほどのショックを受ける者もいる。そうした人にとって「推し」は何よりも尊く、「推し活」は単なる趣味ではなく、一つの生き方に近い。
にもかかわらず、特に強い思い入れがあるわけでもなく候補者を選んだだけなのに、この選挙が「推し選」というコンテクストをまとうことで、投票者は自動的に"推している"立場に置かれてしまう。意地悪な言い方をすれば、「その候補者があなたにとって人にすすめたいほど気に入っている人物なのですね」と、勝手にラベルを貼られてしまう構造でもあるのだ
4。
前述したとおり、「推し」という言葉の視点は常にファン――すなわち応援する側――にあり、その
能動的な感情の動きによって生まれる行為が「推し活」である。それにもかかわらず、近年はそのキャッチーさやマーケティング上の使いやすさばかりが先行し、人の「推す」という感情がビジネスや広報の都合のために利用されている。若者にウケる言葉だからと、この選挙のように安易に転用するのも、どうにも押しつけがましい。真剣に推している人々へのリスペクトが感じられないのだ。
「推し」は消費対象であるがゆえに、そのマーケットが活性化することや、推し活を支えるグッズや機会が提供されること=経済性が生まれること 自体は、オタクにとって必要な営みだ。しかし、「推し活」という言葉が生む経済効果や若者の関心に、安易に便乗しようとするやり方には、やはり違和感を覚える。
2 「推し」という言葉そのものは、80 年代頃からアイドルオタク界隈で発祥した俗語とされてお. り、2ちゃんねる上でモーニング娘。のオタクを中心に使われていたというのが通説の1つだ。あくまでも「推し」という言葉が広く周知されたきっかけがAKB48であると意味だ。
3 近年では、特定の議員や政党を「推し」として、SNS上で"推し活"的に応援する動きも見られる。動画配信の増加やSNSでの投稿の活発化により、政治家の私生活やパーソナルな側面が可視化されるようになったことで、そうした一面に親近感や好感を抱き、支持を表明する人も少なくない。同時に、議員の側もそうした「推し活的」な共感や親近感、感情的支持を意識したような発信を行う例が増えている。もちろん、それ自体を否定するつもりはないが、「推し」であるという理由だけでその人物の発言や行動を無批判に肯定し、異なる意見や批判を"ノイズ"として排除する態度には危うさを感じる。"推し活"という文化が政治に持ち込まれると、感情的な支持と合理的な判断の境界が曖昧になり、民主主義の前提である批判的思考が損なわれるおそれがある。政治や選挙においては、"推し活"のようなカジュアルな視点で候補者や有権者を捉えるべきではない。政治とは本来、共感や好悪の感情ではなく、公共の利益と合理的な判断に基づいてなされるべき営みである。その区別を見失うと、政治的支持が"好感度"や"親近感"に還元されてしまう危険がある。そうした意味でも、政治の領域に"推し活"の文化的枠組みが安易に持ち込まれることには、慎重であるべきだと考える。
もっとも、"推し"という言葉が常に妄信的な肯定を意味するわけではない点も付記しておきたい。オタクの多くは、推しの言動を批判的に受け止めたり、時には「推し変」と呼ばれる対象の変更に至ったりするなど、柔軟な距離感を保ちながら関係を築いている。つまり、「推し」であることは必ずしも全面的な肯定を意味せず、むしろ自らの価値観との照合や再評価を通して形成される動的な関係性なのであることは留意したい。
4 実際にそのような認識で選挙が行われているとは筆者も思ってはいないが、「推し選」というラベルはそのような意味を待たせることもできてしまう。
3――推し=関係