知り合いの姪っ子の話だ。ある日知り合いが姉の家に遊びに行くと、当時3歳だった姪が嬉しそうに彼女を迎えたそうだ。姉(姪の母)は、私の知人にこっそり、「今日○○が着ている洋服は○○が選んで買ったんだよ。」と耳打ちすると、「○○ちゃんすごいね!自分で選んだんだってね!!」と、彼女はその姪を大げさに褒め称えたそうだ。しかし、姪の反応は冷静で、彼女に「これはお母さんが選んだんだよ」と返答したらしい。困惑した彼女と姪の母は、「○○ちゃんが選んだの忘れちゃった?」と返したそうだが、姪はその時の状況を丁寧に彼女に話したという。
なんでも、姪の母が姪のためにあらかじめ選んだ2つの洋服(選択肢)から、姪に選ばせたのだそうだ。確かに、姪は選択をしている。姪の母はその選択という行為から姪が選んで購入したという経験を積ませたかったのだが、姪にとってはたくさん店内に並んでいる洋服から自分が選んだわけではなく、あくまでも母親が選んだものから選んだ(選ばされた)にすぎず、自身の意思で決める「選択」ではなかった。
そもそも我々は選んでいるようで消費対象を選んではいない。何故なら「欲しいもの」が何かわからず、他人が言語化(実像化)したもの(自身の知る消費できるもののデータベース)の中から、「欲しい気がする」モノが消費行動に駆り立てるからだ。例えば、「喉が渇いた」という欲求を満たそうとした際に、甘い、冷たい、炭酸飲料、150円前後、といったその欲求を満たす条件を下に、自身の過去の消費行動や情報に基づいたデータベースから想起したモノを購入する。この場合、その選択肢はコーラかもしれないし、ジンジャーエールかもしれないし、サイダーかもしれない。そこから、今手に入れることができる選択肢の中から選ぶ理由を検討するのである。
欲望のイメージがより明確であれば、炭酸飲料→コーラ→コカ・コーラ→コカ・コーラ・ゼロといったように特定の商品に絞られていく。しかし、ここで選ばれた商品はあくまでの当人が知っている中での飲料カテゴリーであるため、この世の中に数えきれないほどある飲料カテゴリーから消費者が選んだわけではない。自分の経験上では、この喉の渇きを潤すためには「コカ・コーラ・ゼロ」が適していると判断したとしても、例えば自身の知らないブラジルで売っているコーラの方がもしかしたらよりその欲求を満たすのに適しているのかもしれないし、もしかしたら、そもそもコーラではない自身の知らないカテゴリーの飲料のほうが適している可能性もあるのだ。前述したとおり、私たちの欲求はあくまでも自身の経験側を元に充足されているにすぎないのだ。
また同様に我々は仕事帰りにスーパーマーケットで自身を労うためにビールを買う事がある。陳列されているラインナップから今日の気分にあったものをレジに持っていく。これもあなた自身が選んだのには変わらないが、数えきれないほどのラインナップから店側が選んで、その店の選んだラインナップという限られた選択肢の中で選択を強いられているのである。ラインナップが悪い店で、仕方ないからと妥協して買うのは、本来飲みたかった銘柄じゃないけど渋々それを選んでいるわけだ。(いまいちだからと店を変えても、結局品ぞろえの悪かった店に置いてあった銘柄をその店で選んでしまう事もある)。そこで選ばれたビールは確かにあなたのビールを飲みたいという欲求を満たしているかもしれないが、果たして本当に「欲しかった」モノをあなたは選んだと言えるのだろうか。
世の中には何千何万という商品が存在しており、そのすべてを認知することは不可能である。さらに、販売者の用意した商品ラインナップは、何千何万とある商品の中からスクリーニングされた結果でもある。認知内/外、商品ラインナップ内/外、どちらにせよ自身に与えられた選択肢は、無限の中から自ら選び取った結果ではなく、他者によってあらかじめ設定された枠組みの中での選択に過ぎない。私たちは自由に選んでいるようでいて、実際には「選ばされている」のである。また、自分の欲求そのものも、過去の経験則
2が基になっており、その枠を超えたものを「欲しい」と感情が見いだされることの方が稀である。
それでも、人はその限られた枠の中で最適な選択を行おうとする。自らの好みや価値観をもとに「自由に決めている」と感じるが、その自由は構造的に制約されたものである。つまり、私たちの消費行動は、無限の可能性の中での自由ではなく、「誰かが設計した有限の選択肢の中での自由」というパラドックスの上に成り立っている。
2 他人が実現した幸福を自身の再現したいと駆り立てられる他社の存在によって生み出される欲求や過去の自身が経験した消費体験や知識など。また、そもそも過去の自身の消費経験も他人の消費結果を顧みて見出された欲求であることの方が多い。
3――あるスーパーマーケットでの話