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コラム

連立を組む信念の一致はあるか-1940年、英国の戦時連立政権-

2025年09月25日

(磯部 広貴) 保険商品

1――2人の党首

第2次世界大戦中の1940年、英国では保守党政権1に野党第一党の労働党が加わって戦時連立政権が誕生した。

首相である保守党の党首はウィンストン・チャーチル、労働党の党首はクレメント・アトリーであった。元は違う党の党首であるから植民地政策など主義主張の多くに隔絶があるのは当然として、2人の党首は人物特性としてもかなり様相を異にしていた。

貴族の生まれで雄弁で数々の名演説を残したチャーチル。中流階級から左翼運動に傾倒し地味で知られたアトリー。どちらも第1次世界大戦を経験しているが、9歳の年齢差2があるとはいえ、職業軍人であったチャーチルが海軍大臣であったのに対し、アトリーは30歳を超えての志願兵に過ぎなかった。

しかし連立を組む時点で、この2人の党首には共通の信念があった。ナチスドイツの思想上の危険を見抜き、民主主義国家である英国とは絶対に共存できない敵とみなしていた点であった。ナチスがドイツを掌握して以来、チャーチルは一貫して警鐘を鳴らしてきた。アトリーは1940年初めの演説の中で「ナチス一派は、英国人のすべてが望ましきものと認められている諸道徳-実際には実践しない人でも認めてはいる諸道徳-の価値を認めていない」3と述べている。

そんなの当たり前じゃないか。思わずそう反応してしまうのは、ユダヤ人を毒ガスで大量殺戮4するなどナチスドイツの蛮行を描いた書物や映画に囲まれて育った現代人だからでしかない。当時の英国は全く異なる状況にあった。
 
1 少数政党の協力を得て挙国一致を掲げていたものの、実質的には保守党の単独政権であった。
2 チャーチルは1874年生まれ、アトリーは1883年生まれ。
3 「アトリー自伝 上巻」(1955年、新潮社一時間文庫)142頁より字体を除き原文のまま引用。他に「キリスト教は個人の価値を肯定した。ナチスはこれを否定している」「この闘争は英国社会の安全ということ以上の闘いと確信する。野蛮主義に対する文明の戦いを戦っているのである」とも述べられている。
4 ナチスドイツによるユダヤ人への迫害や大量虐殺はホロコーストと呼ばれる。特に1941年以降は最終的解決と称して強制収容所での大量虐殺が展開された。ホロコーストによる死者は約600万人と推計されているが、強制収容所の実態は連合国軍がナチスドイツ占領地域を解放するまで詳しく知られていなかった。

2――ナチスドイツ宥和主義者の中で

時を遡ること約20年、戦闘では寸土も侵されなかったドイツは第1次世界大戦の敗戦国になり、ベルサイユ条約で領土の割譲と天文学的な賠償金を課された。これに関して「さすがにやり過ぎた」と反省しつつ、力をつけてきたナチスドイツの過大な要求に寛容な姿勢で臨む政治家などが英国に存在した。

さらに当時の首相ネヴィル・チェンバレンは、共産主義国家という新しい形態の敵としてソ連を警戒する中、同国をけん制する機能をナチスドイツに期待していた。ナチスドイツが自国内でユダヤ人や社会主義者などを迫害していることは当然知っていたであろうが、チェンバレンは第三国であるチェコスロバキアの領土を同国に諮らずにヒトラーに譲る5ほどのナチスドイツ宥和主義者であった。とはいえ、そのような協議をまとめてドイツから帰国したチェンバレンが平和を守った英雄として凱旋将軍状態であったというのだから、あながちチェンバレン1人の問題とも言えない。チャーチルはこれまでと同様、宥和政策を痛烈に批判したものの、保守党の主流からは外れたままであった。

度重なる譲歩にも関わらず、その後もナチスドイツの増長6は止まらない。次に領土的野望の的となったポーランドの保護を英仏は約束し、1939年9月、それでも同国に侵攻したナチスドイツに対してさすがにチェンバレンも宣戦布告を行った。その過程でナチスドイツ宥和主義者であるチェンバレンへの支持が低下していく中、さらに翌1940年4月、戦局を見誤った発言7でその信用は大きく失墜した。

進退窮まったチェンバレンはアトリー率いる労働党に連立を打診する。アトリーの最終回答は「チェンバレン首相の下では協力しない。他の保守党員の下であれば協力の可能性がある」であった。これを受けて同年5月10日、チェンバレンは首相を辞任、開戦と同時に海軍大臣に復帰していたチャーチルが首相に就任した。その翌日、戦時小内閣が組織され、保守党からは首相のチャーチルはじめ3名、労働党よりアトリー8を含む2名が入る。その5名は、ナチスドイツに敗れたとき真っ先に処刑される運命の者たちであった。
 
5 1938年9月、ミュンヘンで英仏独伊の首脳が会談し、チェコスロバキアよりドイツへのズデーデン地方割譲が決められた。チェコスロバキアはこの会談に招かれていない。
6 1939年3月、ナチスドイツはミュンヘン協定を無視してチェコを占領し、スロバキアを独立させた。
7 開戦の後、英仏もナチスドイツも軍備に時間を要し実際の戦闘状態に突入したのは翌1940年春になってからであった。同年4月、チェンバレンが「ヒトラーはバスに乗り遅れた」と発言した数日後にデンマークとノルウェーがナチスドイツに制圧された。
8 アトリーは副首相格の国璽尚書として入閣した。

3――信念が果たされた後

同年6月にフランスを屈服させたナチスドイツは、孤立した英国が当然のごとく降伏すると軽く考えていたようであり和平提案を出したものの、英国は一蹴し徹底抗戦に出た。どれほど苦しくとも、今の戦争に勝ち切る他に英国の選択肢は存在しないというのが2人の党首の共通認識であった。

ロンドンへの空襲は甚大な被害を及ぼしたが、ナチスドイツは最終的に英国への上陸を果たすことはできず、同年9月には作戦を断念するに至った。翌1941年3月まで断続的に空襲を行ったものの、これらの空襲は計画中であったソ連への侵攻を隠す意図であったとされる。

同年6月にナチスドイツはソ連に侵攻し主軸が東に転じたことから英国本土の危機は去った。また、同年12月の日本による真珠湾攻撃を受けて米国が参戦した。東ではソ連の反転攻勢によって戦局は好転していく。1942年2月、内閣改造によって正式に副首相となったアトリーは、海外出張の多いチャーチルが不在のときは首相代行を務めてよく補佐した。

とはいえ戦争の帰趨あるいは英国の勝利が見えてくるにつれ、保守党と労働党の軋轢も見えてくるようになった。異なる主義主張の集団なのであるから当然のことでもあった。

1945年5月、遂にナチスドイツが無条件降伏に至った。交戦中の日本という不確定要素が残っていたものの、ナチスドイツの崩壊は両党に連立の必要性が消滅したことを実感させ、1935年以来の総選挙を促すものであった。連立政権発足後、総選挙は延期が続いていた。

連立解消を受けて保守党による選挙管理内閣に移行した後、同年7月に行われた総選挙で保守党は惨敗を喫し、労働党が政権を奪取する。戦後にあるべき福祉国家の姿あるいは包括的な社会保障制度を示し国民の関心を広く集めていたベヴァリッジ報告9について、保守党が距離を置く一方で、労働党は速やかな実行を公約に掲げた。第1次世界大戦から復員した兵士の多くが困窮に陥った過去が多くの国民の記憶に残る中、支持を集めたのは戦勝の実績を強調する保守党ではなく、将来に向けて社会保障制度を整えようとする労働党であった。

不屈の闘志で英国を勝利に導いたチャーチルは日本が降伏するよりも前に首相の座を追われた。ナチスドイツ打倒という共通の信念を持っていたアトリー率いる労働党は、信念が果たされるや政敵に変じて保守党を打ち破った。非情な結果ではあるが、異なる政党が連立するのは特定の領域で信念が一致するときだけ、信念が果たされるや元の政敵に戻るというのはむしろ自然な成り行きと言えよう。
 
9 1942年12月、失業問題の権威であったウィリアム・ベヴァリッジが「社会保険および関連サービス」と題する報告書を公表した。英国のみならず各国の社会保障制度構築に多大な影響を与えたとされる。作成経緯や内容など詳細は拙稿「いま振り返るベヴァリッジ報告-少子化対策も組み込んだ80年前の社会保障計画-」を参照いただきたい。

4――教 訓

わが国では石破首相の辞任表明後、自民党は総裁選の最中にある。両院で少数与党になった同党にとって、新総裁の下、政権基盤を強化するため野党との連立拡大が取り沙汰されている点、議院内閣制の先輩である英国で1940年にチェンバレン政権が行き詰ったときと状況が似てなくもない。

この年に生まれた英国の戦時連立政権が教えてくれたのは、連立とは信念の一致によってともに身命を賭することであり、信念が果たされた後はあっさり政敵に戻るという過酷な現実である。その過酷な現実を生み出したのは、ナチスドイツとの戦いという風雲急を告げる国難であった。

他方、現在のわが国で連立が話題になる主な背景は、与党が政策ごとに様々な野党と個別協議をしていては譲歩の幅が大きく整合性もとれなくなることへの懸念10と報じられている。そこで与党は特定の野党との連立によって政権の安定を図りたいとのことだが、どの政策でお互いの信念の一致を確認するのであろうか。実際にそのような連立政権が誕生して成功を収めるのであれば、むしろこれまで別の政党であったことが不可思議な事象であったと指摘すべきなのかもしれない。
 
10 日本経済新聞(2025.9.17)の政治・外交面では、政策ごとに野党の協力を仰ぐ「部分(パーシャル)連合」について「自民党内では「このやり方では限界だ。急いで連立協議をしないといけない」といった声が広がる。テーマによって連携する野党を変えれば、政策に一貫性がなくなったり、取引のために財政規律が緩んだりする懸念が生じる」と記述している。

保険研究部   主任研究員・気候変動リサーチセンター兼任

磯部 広貴(いそべ ひろたか)

研究領域:保険

研究・専門分野
内外生命保険会社経営・制度(販売チャネルなど)

経歴

【職歴】
1990年 日本生命保険相互会社に入社。
通算して10年間、米国3都市(ニューヨーク、アトランタ、ロサンゼルス)に駐在し、現地の民間医療保険に従事。
日本生命では法人営業が長く、官公庁、IT企業、リース会社、電力会社、総合型年金基金など幅広く担当。
2015年から2年間、公益財団法人国際金融情報センターにて欧州部長兼アフリカ部長。
資産運用会社における機関投資家向け商品提案、生命保険の銀行窓版推進の経験も持つ。

【加入団体等】
日本FP協会(CFP)
生命保険経営学会
一般社団法人 アフリカ協会
一般社団法人 ジャパン・リスク・フォーラム
2006年 保険毎日新聞社より「アメリカの民間医療保険」を出版

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