EUでは、2024年初から適用が開始されたESRS(欧州サステナビリティー報告基準)が、企業に対して生活賃金(適正賃金)の情報開示を求めている。そうした規制環境にない日本では、企業の生活賃金に対する意識が相対的に低くなることはやむを得ない面もあろうが、先に指摘した通り、生活賃金の問題が長期的な企業価値低下というESGリスクになり得ることには十分留意する必要がある。日本では、「生産性向上が先か、賃上げが先か」という議論がしばしば持ち上がる。これは、賃金を「コストとみるのか、投資とみるのか」という議論に行き着く。賃金をコストとみる企業経営者は、生産性が上昇し会社が成長してはじめて(原資が確保されて)、賃上げが可能と考える。一方、賃金を(人的資本)投資とみる企業経営者は、賃上げの先行を厭わない。
日本は前者のタイプの経営者が少なくない。しかし、人口が減少し人手不足が深刻化していく中で、賃上げや人的資本投資を先行せずに、生産性の上昇を待つことのリスクは年々大きくなっている。ESGのリスクと機会という視点から、長期的な企業価値の改善を考えた場合、生活賃金の支払いを人的資本投資(の必須項目)として捉えていく必要性は高まっている。
日本の投資家にも課題がある。ESRSの適用が開始されたEUはもちろん、米国でも、投資家が企業との対話(エンゲージメント)において、生活賃金を主要テーマの一つとして位置づけ始めている。昨年、米国の機関投資家136先(AUM計4.5兆ドル)が共同で生活賃金に関する
声明を公表している。従業員に対して生活賃金を支払っていない企業はESGリスクに直面していること、そして、生活賃金の問題が経済全体の生産性を低下させるシステムレベル・リスクとなって投資家(とその受益者)に影響を及ぼし得ることを踏まえ、企業に改善を促している。社会(S)課題に関しては、これまで、環境(E)課題のGHG(温室効果ガス)排出量のような定量的に測定可能な指標がなかったため、企業評価が難しい側面があった。しかし、生活賃金は、GHG排出量と同様に定量的に測定可能な指標であり、投資家としても追跡しやすいため、今後、
投資家の間で関心がさらに高まっていくとみられる。日本の機関投資家も、こうしたグローバルな動向に遅れることのないように、生活賃金に対する認識を深めていく必要があろう。
生活賃金に関する課題解決に向けた政府の対応も重要だ。企業が囚人のジレンマに陥り、非正規雇用の増加など賃金コスト削減の戦略から抜け出せずにいる場合には、最低賃金の引上げによって、生活賃金とのギャップを縮小させていくことが望ましい。同時に、サプライチェーンにおける中小企業の労務費の価格転嫁を後押しする環境整備も重要となる。今年6月に閣議決定された「
新しい資本主義のグランドデザイン及び実行計画2024年改訂版」には、(生活賃金に関する言及はないが)これら2つの要素が既に取り込まれている。今後、政府は、福祉政策や労働システムといったより大局的な観点から、生活賃金について検討していく必要があろう。
北欧諸国において最低賃金制度が無いのは、労働組合の組織率が高く団体交渉力が強いことに加え、政府による「積極的労働市場政策」など手厚い福祉政策によって労働者が守られているためである。一方で、労働組合主導で決まった賃金水準が労働市場を均衡させる賃金水準を上回れば、失業率は高くなる――実際、北欧諸国の失業率は日本よりも高い――。日本の低失業率には、正規労働者の雇用安定が労働法(解雇権乱用法理)によって保護される中、非正規労働者が雇用の調整弁として機能してきたことが寄与している。生活賃金に関しては、各国の福祉政策や労働法制と独立に論じることはできない。
最後に、中央銀行の金融政策である。国民経済厚生の観点から、インフレ率と生活賃金の関係をどう捉えるべきかは、中央銀行にとって難しい課題である。生活賃金は生計費をベースにしたものであるため、インフレによって生計費が増加すれば、生活賃金もそれにスライドして上昇する。一方、最低賃金のインフレ・スライドの度合いが低ければ、生活賃金と最低賃金のギャップはインフレによって拡大する。したがって、生活賃金と最低賃金のギャップの拡大を防ぎ、労働者の生活の質(well-being)の悪化を予防するうえで、物価安定は重要である。では、企業が生活賃金支給のために賃金を引き上げた場合、中央銀行はこれをインフレのシグナルと受け止めるべきだろうか。生活賃金の支給が労働生産性の増加を伴うのであれば、インフレを伴うことなく実質賃金の上昇が可能となる。したがって、中央銀行は、賃金の上昇について、景気循環に伴う労働市場の過熱感のシグナルなのか、それとも生産性上昇のシグナルなのか識別する必要がある。そのためにも、中央銀行は、サステナビリティという切り口から、企業や投資家との対話を深めていくことが重要になろう。