一方で同施設には従来で言う「迷路」もしくは「おばけ屋敷」のフォーマットのアトラクションがある。このタイプのアトラクションでは体験者は「歩く」ことは必要であるが、ルートが決まっているため「ザ・シャーロック -ベイカー街連続殺人事件-」のように好き勝手に自分の意志で行動していい訳ではないため自由度は高くはない。
人気テレビ番組『逃走中』のように、生き残るためにいかに逃げ回りつづけるかを目的とした「鬼ごっこ」型のアトラクションにおいては、主体性が高い一方で、ゲーム内で「ミッション」が与えられているためそのミッションに沿って行動する必要があり自由度はそこまで高くはない。
従来のフォーマットで例えるのならばディズニーランドやユニバーサルスタジオなどで行われている園内に於ける雰囲気を盛り上げるために行われるアトモスフィア・ショー(小規模なショー)や一時期流行した「フラッシュモブ」のような突発的に開催されるエンターテインメントアトラクションにおいては、突然起こるシナリオのあるエンターテインメント(ショー)に自身も巻き込まれるという意味で「生のエンターテインメント性」に参加者の能動性が付与されている。しかし明確に役割が決められていたり、指示に沿って行動しなくてはいけないため、主体性および自由度は高くはない。
他にもウォークスルー型のアトラクションがあるのだが、従来のフォーマットで言えば「展示」と変わらない。しかし、展示の仕方が様々な「傍観的イマーシブ(デジタルテクノロジー)」の技術が駆使されており、物語が移り変わるごとに自分もその場にいるような感覚を得ることができる。これは他のアトラクションとは異なり、主体性や自由度はないが「傍観的イマーシブ(デジタルテクノロジー)」の要素によって十分に没入感を得ることができた。
筆者自身様々なイマーシブコンテンツを国内外で体験してきたが「ザ・シャーロック -ベイカー街連続殺人事件-」以上に没入感のあるコンテンツを体験したことはなかった。まさにイマーシブコンテンツの現状における完成形であると評価している。そのため没入感という軸で「ザ・シャーロック -ベイカー街連続殺人事件-」とその他のアトラクションを比較し、評価してしまうと、その他のアトラクションが見劣りしてしまうが、これは大きな間違いである。考えてほしい。「迷路」と「展示」で提供されている娯楽性は同じだろうか。「鬼ごっこ」と「フラッシュモブ」で当事者意識は同じだろうか。答えはNOだ。コンテンツの性質上自由度が効くモノがあれば、主体性を必要としないモノもある。同じイマーシブコンテンツだからと言って一括りで評価するのは適切ではないし、せっかくいい体験をしても、比較対象がずれている場合、正しい評価にならず「つまらない体験だった」「消費に失敗した」とネガティブな消費結果に繋がってしまいかねない。
我々が没入していると感じる瞬間は同じ個人であっても引き出される要素がその時々で異なる。すごい映像をみて没入することもあれば、なにか趣味や作成をしている時、楽しい時間を過ごしている時に時間を忘れて没頭(没入)することもあるだろう。同じ没入という言葉で表現される我々の感覚もその時々で性質が異なる。そのため前述した通り主体性と自由度の度合いで各々のコンテンツを評価すべきではないか。
筆者自身がイマーシブ・フォート東京で経験したアトラクションをここでは従来のコンテンツとなぞって「迷路」「鬼ごっこ」「アトモスフィア・ショー」「展示」と表現したが、消費者自身が今まで経験してきたジャンルのエンターテインメントとイマーシブ・フォート東京の同ジャンルのコンテンツとを比較することで初めて「そのジャンルにおける」コンテンツの没入具合を評価できるわけである。もちろん、筆者はどのイマーシブ・フォート東京のアトラクションも過去に経験したこれらのジャンルのコンテンツと比較しても勝るとも劣らないモノばかりであったと評価している。
以前のレポートで、イマーシブコンテンツを正しく消費する上で、「作られたものだから」と斜に構えてしまっては、没入できるものも没入できないため、いかにそのつくられたモノを愛すことができるかが、没入体験をより高次なモノにできるエンジンであり、イマーシブ、没入型消費の本質であると論じたが、もちろん「イマーシブ」と称されているモノ全てにおいて正しく「没入感」が提供されている訳ではないのも事実だ。2024年2月26日にBBC によって報道されたニュースによれば
3、映画『チャーリーとチョコレート工場』の世界を体験できるイベント「Willy's Chocolate Experience」は、その質の低さから入場者からのクレームが殺到し、警察沙汰にまで至ったという。このイベントの入場料は35ポンド(約6700円)で、全てを回るのに45分から1時間はかかるということだった。Willy's Chocolate Experienceの広告では、イベント会場の空間を描いた画像として、実際とはまったく違うAI生成の画像が使用されていたためその全容が広告からはわからなく、消費者の期待値は上がっていた。しかし、実際の会場は、廃屋のような倉庫の内部に、お城の形の空気の入ったトランポリンや手作り感いっぱいの虹のアーチ、カフェテリアのテーブルが適当に置かれているだけで、歩いて回るのに5分もかからないものだったという
4。これは極端な例ではあるものの、イマーシブと語られている、もしくは没入感を想起させるような謳い文句であっても「傍観的イマーシブ」の視点から言えば高度なデジタルテクノロジーが使われておらずお世辞にも没入感を得られるクォリティではないモノもあるだろうし、「非傍観的イマーシブ」の側面から見れば思った以上に主体的な動きを求められないモノもあるだろう
5。そのため、コンテンツ間で没入度合を比較することは意味を有さないと論じたが、前向きにコンテンツを消費しようとしたにも拘らずまったく没入感を得なかった場合は「没入感がなかった」と評価すべきだし、「イマーシブコンテンツ」を謳っていてもそのクォリティはピンからキリまであることは覚悟しておくべきである。
そうはいっても、今後益々、イマーシブコンテンツは市場で存在感を増していき、「イマーシブ」という言葉を耳にする機会も増えると思われるが、そのイマーシブ(没入感)が何によって見出されており、我々はその体験から何を期待するべきなのか検討する際には、本レポートで提示した「主体性」と「自由度」という評価軸を参考にしていただければと思う。