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バラッサ・サミュエルソン仮説
以下では、日本の実質為替レートが長期的に減価している要因を分析するために、バラッサ・サミュエルソン仮説を通じて、実質為替レートと生産性の関係に焦点を当てる。
一般に、国内で取引される財・サービスは、海外と貿易可能なもの(貿易財)とそうでないもの(非貿易財)に分けられる。外国で安く散髪ができるからといって、わざわざ外国に散髪に行く人はなかなか想定できないように、サービスの多くは非貿易財と考えられる
6。そして、物価は、貿易財の物価と非貿易財の物価によって構成されていると考えることができる。
ここで、貿易財は海外と貿易されているものなので、競争を通じて、一物一価が成立すると仮定すると
7、実質為替レートは非貿易財の内外価格差によって決まるともいえる。つまり、二国間で比較した場合に、貿易財に比べて非貿易財の価格がより上昇する国ほど、実質為替レートは増価する。
なお、数式で表現すると
8、まず、実質為替レートは、
(
E:実質為替レート、
S:名目為替レート(市場レート)、
P:自国の物価水準、
P*:他国の物価水準)となる。次に、物価を貿易財と非貿易財で
(
PT:貿易財の物価、
PN:非貿易財の物価、
ω:自国の非貿易財のウェイト、
ω*:外国の非貿易財のウェイト)と表現すると、
となる。
この数式を扱いやすくするために、対数に変換して整理すると(対数値は小文字で表記)、
と表現できる。貿易財で一物一価が成立すると仮定すると(すなわち、
)、実質為替レートは、
と表せ、貿易財と非貿易財の相対価格の比率として表されることがわかる。
次に、実質為替レートを生産性と関連付ける。生産性が実質賃金に等しく決まることを仮定すると、
、(
AT:貿易財の生産性、
AN:非貿易財の生産性、
W:名目賃金)と表現できる。両式を対数化した
、を上述の実質為替レートの数式に代入すると、実質為替レートは、
と表される。実質為替レートは、貿易財と非貿易財の生産性の比率の二国間での差が反映されており、非貿易財に比べて貿易財の生産性がより上昇する国ほど、実質為替レートが増価することとなる。
実質為替レートが貿易財と非貿易財の生産性の二国間の差を反映して決まるとする仮説をバラッサ・サミュエルソン仮説というが、そのメカニズムを考えると以下のようになる
9。
たとえば、自国の貿易財を生産する産業において生産性が向上したとしよう。生産性向上により、以前より安く生産できるようになったことを踏まえて、貿易財の販売価格が引き下げられる場合もあれば、貿易財の販売価格を変えない代わりに、貿易財の生産に従事する労働者の賃金が引き上げられる場合もあるだろう。
まずは、自国の貿易財産業が生産性の上昇を背景に、生産した財・サービスの価格を引き下げる場合を考えよう。自国の貿易財産業の価格低下によって価格競争が激化すれば、外国の貿易財は、価格の低下圧力にさらされる。もし外国の貿易財産業で生産性に変化がなければ、外国の貿易財産業の売上が減少し、貿易財産業に従事する労働者の賃金が低下する要因となる。賃金の低下により、貿易財産業で従事する労働者が貿易財産業から非貿易財産業に移動すれば、非貿易財産業における労働者の労働供給が増加することになるため、非貿易財産業の労働者の賃金にも低下圧力がかかる。サービス産業などの非貿易財産業は、労働集約的である場合が多く、生産コストに占める人件費の割合が大きいため、賃金の低下が結果として価格の低下につながる。よって、自国の貿易財産業の生産性向上による貿易財価格の低下は、外国の賃金や物価の低下を引き起こす。
また、生産性が向上した自国の貿易財産業が、貿易財産業の販売価格を変えない代わりに、貿易財の生産に従事する労働者の賃金を引き上げた場合を考えると、貿易財産業の高い賃金を求めて、非貿易財産業の労働者が貿易財産業に移動しようとするため、非貿易財産業の労働供給が減少し、非貿易財産業でも賃金上昇圧力が働く。その結果、非貿易財産業の価格が上昇し、自国の一般物価を上昇させることになる。
6 ただし、サービスだからといって非貿易財とは限らない。たとえば、教育サービスを考えると、大学や大学院には多くの海外留学生が在籍しており、教育サービスは輸出されている。
7 なお、貿易財について、必ずしも一物一価が成立するとは限らない。たとえば、企業が貿易財について販売する国によって異なるマークアップ(販売価格と限界費用の比率)を設定する場合、すなわち、市場別の価格設定を行う場合には、一物一価を逸脱する(Itskhoki, 2021)。
8 Schmitt-Grohe, Uribe and Woodford (2022)やItskhoki (2021)、河合ほか(2003)等を参照。
9 以下の説明は、清水ほか(2016)を参考にした。