情報交換を目的に他のオタクと接点を持っているオタクにとって、コミュニティは同じコンテンツを消費しているという共通項の下、一つの群衆として括られているに過ぎない。彼らの効用を満たすのはコンテンツそのものなのであり、そこで行われるコミュニケーションは充実したオタク活動をする上での手段にしかすぎない。一方、若者のオタクのようにコミュニティに属し、帰属意識を持つこと自体が精神的充足に繋がるということは、コミュニケーション自体に重きを置いており、同じコミュニティに属していても、コミュニティに対する意識は双方で大きく異なることになる。
コンテンツそのものから精神的充足を行うオタクにとっては、こだわりが強かったり、好きを突き詰めるほど他人との価値観との間に差異がうまれ、その結果孤立
15していく傾向がある。筆者自身、「オタクならばこうあるべき」という強い意志を持っているタイプのオタクであるが、このあるべきという普遍性は筆者自身が描くオタク像の理想であり、この理想像も人によっては違っているだろう。
消費者層が多様化する中で、各々が描く「あるべき論」
16は美徳である一方で、強要されるものではないことを多くのオタクは理解している。だからこそ、こだわりが強まるほど、「わかる人が分かればいい」「自分以外この価値は理解できない」といったように、自身と他人を分けるゾーン・ディフェンス(境界設定)を高くすることに繋がるのである。併せて、他のオタクに対する感情は、Not For Meの(自分は共感しないという)スタンスや、他のオタクを購入機会損失に対するリスクと捉えることで、益々他のオタクと自身の間にある違いが浮き彫りになっていくのである。
このような背景から、表面的にはオタクは良好な関係を築いたり、コンサートイベントなどでカーニヴァル化の様に瞬間瞬間で他のオタクと盛り上がることは可能であるが、それぞれが好きを突き詰めるほど、その根底に利己主義や排他性を生む強いこだわりがあるため、オタク要素の強いコミュニティになるほど、良好な人間関係の構築や維持は困難になっていくと筆者は考える。しかし、実際はコミュニティに属することで得られるメリットも多いため、均衡を保とうと努める事が一般的である。この均衡を保とうと努めることの一つがNot For Meの精神なのである。SNSを使用していれば毎日のように、他のオタクの意見に賛同できない、この人の知識は間違っている、この人は過剰な思想を持っている、といった他人に対する非難の意識を持つことがある。しかし、それにいちいち首を突っ込んでいたら、きりがない。結局オタクのコミュニティは、現実社会で培った人間的背景、感性、思想、個性といったいわば人間の土台となるものを一切無視して、ただ同じ「好き」という感情を持ち合わせた人たちが集っているのだから、わかり合えなくて当然なのである。だからこそ、表向きでは聞き流したり、話を合わせたりすることで、一時の均衡を保つのである。
本レポートで挙げた様々なオタクの価値の強要は、聞き流したり、関わらないようにしたり、自身の意見と反する人と距離をとらず、むしろ近づきに行っている行為と言えるのではないだろうか
17。完全に分かり合えないからこそ、距離を取り合うことは他人の価値観を尊重する上で、また自身の精神衛生上も大事なことなのである。
ここまでの話であれば、大人な対応をするオタクもいるから、そういう人たちと仲良くなりたいと、思うかもしれないが、実際は多くのオタクが複数のアカウントを持っており、いわゆる裏アカウントを駆使して、自身では仲が良いと思っているオタク仲間に対しても、表向きは聞き流しながら、影では嘲笑ったり、非難することが一般的なのである。更に、裏アカウントで投稿したものを、他の誰かが裏アカウントで非難するといったように、憎しみや妬みの連鎖は繋がることもある。現実社会の人間関係と同様に、SNSにおいても人は、裏では他人を非難して、表では体裁を保つのである。好きなモノに対するこだわりや、愛情が深いという事は、どうしても利己主義に陥りやすい。自分の利益の為なら、仲の良かったオタクを裏切ることも容易と考えるオタクも数多く存在する。また、他のオタクを利用するために近寄ってきて、用が済んだら見捨て、裏アカウントで悪口を言うという事も日常茶飯事である。そのような実態を知らない若者のオタクやライトファンたちが、もし趣味のサンクチュアリーとしてオタクのコミュニティを認識しているのならば、本レポートを参考にオタクのコミュニティに参加することに対するリスクについて、今一度考えてもらいたいと思う。
15 情報交換はオタク活動をする上で重要な要素であるため、人間関係を遮断するわけではなく、自身の価値観は誰にも理解できないし、他のオタクよりも高貴なモノであると、自身の中で思い込み、むしろ他のオタクのコンテンツ消費に対するスタンスを非難せず、表面的には良好な関係を築く者も多い。
16 あるべき論とは、オタクが自身のオタクとしての理想像を重ね合わせている。これだけ消費しているから、これだけ知っているからと、理想にたどり着くまでの過程を各々踏んでいるため、オタクなら最低でもこれくらい知っていなきゃ、最低でもこれは持っていなきゃと、過去の経験則から他のオタクを測る尺度を見出す。そのため、他のオタクがオタクを自称していると、当然自分が消費してきただけのお金や時間を消費してて、自分以上の知識を持っているんだろうな、という自分のオタクの歴史やオタク活動の水準と他人とを比較してしまう。また、オタクならこうあるべきというのは、自分がしているからこそ言える事であり、かつ自分自身が特定のオタクに対して劣等感や負い目があるからこそ、追いつきたいというモチベーションの上に成り立つ。有名なオタクに比べたらまだまだ自分はオタクの端くれにも置けない、というある意味謙虚な姿勢があるからこそ、自分よりも充実したオタク活動をしていないオタクに対して、「自分はオタクを名乗ることを躊躇しているのに、あなたはオタクを名乗っている。ならそれなりの活動や消費をしているということだよね」とある意味皮肉の念を込めて期待をしているのである。
17 炎上させたいという意識や承認欲求を充足したいという点からあえて近づいていく者も多くいることを留意しておく。