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中国、社会保険料の納付強化

2025年09月02日

(片山 ゆき) 中国・アジア保険事情

1――社会保険料の納付を実質的にも「強制」に

8月1日、最高人民法院が「社会保険料納付の強化」に関する司法解釈を発表し、それが大きな反響を呼んでいる。

中国においても日本と同様の社会保険制度が存在する。都市部の会社員の場合、年金、医療、失業、労災の社会保険への加入および保険料の納付が法律で定められており(強制加入)1、雇用主と労働者が一定割合で保険料を負担することになっている。しかし、実際には雇用主と従業員が「社会保険に加入しない」や「保険料分を給与に上乗せして現金支給する」といった‘合意’を交わし、社会保険料を納付しない慣行が長年にわたり存在してきた。都市の会社員向けの種別の社会保険加入者数(現役・保険料納付者数)と都市の就業者数を比較してみると、現役層の社会保険への加入割合は決して高いとは言えない状況にある(図表1)。

このような合意は、雇用主にとってはコスト削減の手段であり、従業員にとっては「一時的な手取り増加」という利点があるように見える。しかし、社会保険料の未納は、長期的には労働者の老後保障や医療保障を失わせる重大な問題を孕んでいる。このような現状を踏まえ、最高人民法院は9月1日以降、雇用主と労働者間の‘合意’は法的に無効としたのである。
 
1 農村部住民、都市の非就労者の社会保険は任意加入となっている。

2――最高人民法院の強いメッセージ

2――最高人民法院の強いメッセージ

最高人民法院は「労働争議案件に関する司法解釈(二)」を公表し、第19条で社会保険の加入義務を改めて明確化した。19条のポイントは以下の3点にある。

1、「雇用主と労働者が社会保険料の納付を免除する約定を結んだり、労働者が社会保険料の不払いを承諾する行為はすべて無効である」と明確に規定した。これは、たとえ双方の合意があったとしても、法定の社会保険加入義務は免れないという最高人民法院の強いメッセージである。

2、「雇用主が社会保険料を支払わなかった場合、労働者は労働契約法第38条に基づき、直ちに労働契約を解除し、雇用主に経済的補償を請求できる」と定めた。すなわち、未加入はそれ自体が契約違反であり、労働者側の解除理由として十分であることを司法解釈で明文化した。

3、「雇用主が後に社会保険料を追納した場合、既に従業員へ支払った補助や補償については返還を請求できる」とした。これは従業員が二重に利益を得ることを防ぐと同時に、雇用主に追納を促す仕組みといえる。

今回の司法解釈は、労働者の権利保護を大きく前進させた。これまで社会保険の加入については、「労使の合意があれば例外も認められるのではないか」といった曖昧な解釈が現場で横行していたが、今後は労使間の曖昧な合意はすべて無効であることが最高人民法院の判断として確立された。

また、従業員側の救済措置も強化された。雇用主が社会保険料を納付していないことが発覚した場合、従業員側から労働契約を解除し、会社に対してその分の経済的補償を求めることができるようになった。社会保険への未加入が労働契約違反とみなされることになり、これは雇用主に対する強力な抑止力となる。

一方で、司法解釈による社会保険料の納付強化には、中国が抱える少子高齢化、社会保険財源の安定的な確保という側面もうかがえる。労使間の合意を無効化することで保険料の徴収漏れを防ぎ、社会保険制度の持続可能性を高める狙いもあろう。都市部の会社員が加入する社会保険制度は現役層が高齢者層を支える賦課方式を採用しているが、急速な高齢化とともに財政への圧力が増大している。社会保険全体でみた場合、保険料等収入(利息・委託投資収入を含む)のみでは給付を賄えておらず、財政補填が増大している(図表2、図表3)。

3――今後の課題と展望

3――今後の課題と展望

今回の司法解釈は長年横行してきた慣行を是正し、強制加入の社会保険としてあるべき姿に軌道修正するものである。しかし、この解釈を経てもいくつかの課題が残されている。

まず、中小企業への負担増である。社会保険料は雇用主負担分と従業員負担分を合わせて賃金の3割以上に達する場合が多く、特に雇用主負担が重い点に留意が必要である(図表4)。中国経済の低成長、不動産不況の中で、この負担増は経営への大きな圧迫となり得る。過度な負担は非正規労働者の増加、人員削減、給与カットなどの副作用を招き、最終的に従業員がその不利益を被る可能性がある。政府は中小企業に対する社会保険料負担軽減策の拡充や、各種税制優遇、負担と給付の見直しなども併せて実行する必要がある。
また、社会保険料の徴収自体は強化されたとしても、それが加入者自身の給与に基づいて規定通りに納付されるとは限らない。社会保険料の納付には、最低納付基準額(当該地域の在職職員の平均給与の60%)と最高納付基準額(当該地域の在職職員の平均給与の300%)が設けられている。本来であれば納付基準の範囲内で、加入者の給与に保険料率を掛けて保険料を算出するのが通常のやり方である。しかし、高い保険料負担から逃れるため、多くの雇用主が適正な基準に基づいて支払っていない現状がある。

『中国企業社会保険白書2024』(調査対象企業6,125社)2によると、適正な基準に基づいて納付している企業はわずか28.4%であった。一方、28.2%の企業が従業員の実際の給与ではなく、最低納付基準額に基づいて(引き下げて)一律に算出・納付しており、22.0%の企業が基本給部分のみで算出・ボーナスを除外して保険料を算出・納付している。今回の司法解釈ではこの適正な基準に基づいた保険料の算出や納付については触れていない。政府は2019年以降、社会保険料の徴収を地方の社会保険当局から税務当局に移行することで徴収の厳格化を進めているが、一層の促進が求められることになるであろう。

その一方で、給与が最低納付基準額以下であっても社会保険料は最低納付基準額に基づいて算出されるなど、所得の低い加入者が相対的により重い負担を強いられている点にも留意が必要である。フリーランス(自営業者)やギグワーカーなどには、年金など保険料率の優遇策があるものの、それでも社会保険料全体の負担は重い。保険料納付の強化としても、現行制度の下では実効性に欠ける場合もある。これら非正規労働者の社会保険適用については、制度の柔軟性を高める政策や企業と連携した特別の枠組みが進められている段階にある。

更に、高齢の労働者を雇用して社会保険負担を回避する企業も出ており、結果として若年層の雇用機会が狭まるリスクも指摘されている。中国では、法定退職年齢を超えると、原則として新たに年金、失業保険などへの加入義務がなくなり、労災のみの加入で高齢者を雇用するケースが見られる。若年層の雇用機会の減少もあるが、本来であればリスクを保障する社会保障制度が、高齢者の就労においてはリスクを拡大してしまうといった事態にもなりかねない。定年延長、長寿化の中で、高齢者の就労も奨励へと切り替わってきている。雇用・就労の構造変化を念頭に、高齢者の社会保険適用についても再考が必要となっている。

今回の中国最高人民法院による司法解釈は、転換の1つのシグナルとなるであろう。企業と労働者双方に社会保険料納付の意識を向上させ、労働者の権利保護を明確化し、社会保険制度維持を図る上で重要な通過点といえる。一方で、中小企業を中心とした社会保険料納付の適性化や非正規労働者への対応といった課題も残されており、制度の柔軟な改革も求められている。今回の司法解釈はその第一歩であり、中国の労働保障システムが次の段階へ進む契機として注目される。
 
2 経済観察網「《中国企業社保白皮書2024》不到3成企業社保基数完全合規、近9成HR不懂養老金計算方法」、2024年8月15日。

保険研究部   主任研究員・ヘルスケアリサーチセンター兼任

片山 ゆき(かたやま ゆき)

研究領域:保険

研究・専門分野
中国の社会保障制度・民間保険

経歴

【職歴】
 2005年 ニッセイ基礎研究所(2022年7月より現職)
 (2023年 東京外国語大学大学院総合国際学研究科博士後期課程修了、博士(学術)) 【社外委員等】
 ・日本経済団体連合会21世紀政策研究所研究委員
 (2019~2020年度・2023年度~)
 ・金融庁 中国金融研究会委員(2024年度~)
 ・生命保険経営学会 編集委員・海外ニュース委員
 ・千葉大学客員教授(2024年度~)
 ・千葉大学客員准教授(2023年度) 【加入団体等】
 日本保険学会、社会政策学会、他

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