今から半世紀前の1970年、第二次世界大戦終結から四半世紀を経た世界は米ソ冷戦の渦中にあった。第二次世界大戦後、マーシャル・プラン
1を主導した米国は欧州の戦後復興を強力に後押しするとともに、自国通貨と金との交換性を維持してブレトン・ウッズ体制
2を支える役割を果たし、西側陣営の盟主となっていた。一方、マーシャル・プランを拒否したソビエト連邦(ソ連)は、東欧諸国などを衛星国とする経済相互援助会議
3(Council for Mutual Economic Assistance、COMECON)で対抗し、東側陣営の盟主となっていた。そして、安全保障面では、西側陣営の北大西洋条約機構(North Atlantic Treaty Organization、NATO)に対して東側陣営はワルシャワ条約機構
4(Warsaw Pact Organization 、WPO)で対峙、自由・民主主義かマルクス・レーニン主義かのイデオロギー論争を繰り広げ、両陣営の間の経済交流はほぼ遮断された状態だった。
まずは当時(1970年)の一人当たりGDPの水準を確認しておこう。西側陣営の主要国を見ると、トップは米国の5,121ドルで、次いでフランス、ドイツ、英国、日本の順番となっており、いずれも米国の半分前後の水準に位置していた(図表-2)。一方、東側陣営の主要国を見ると、トップはソ連の1,788ドルで、次いでポーランド、ハンガリーの順番となっており、いずれもソ連の半分程度の水準だった。また、東西両陣営の盟主であった米ソを比較すると、米国はソ連の3倍弱の水準となっていた。なお、中ソ国境紛争(1969年)でソ連との関係が悪化し米国への接近(1972年には米中共同声明)を図っていた中国は112ドルと極めて貧しい国だった。
その後、ソ連では1985年にゴルバチョフが共産党の書記長に就任し、ペレストロイカ(再構築)が始まった。当初は、政治面で共産党による一党支配や東側衛星国に対するソ連の指導を維持した上で、指令型計画経済(Command Economy)から市場経済(Market Economy)へ転換しようとする経済面の改革に主眼があったが、経済面の改革が中途半端な段階だった中で、民主的選挙や大統領制の導入など政治面の改革が進行し、1991年にはソ連が崩壊する結末となった。1970年からソ連崩壊の前年(1990年)までの一人当たりGDPの推移を見ると、東側陣営の盟主だったソ連の伸びは年平均2.1%で、西側陣営に属した主要国の伸びを大きく下回った(図表-4)。1990年時点の一人当たりGDPの水準を見ても、ソ連は西側陣営の盟主だった米国の10分の1程度まで落ち込んでいた(図表-3)。また、東側陣営に属していたハンガリーでは、早くも1968年に経営の自主判断が取り入れられ、農業改革や工業化がいち早く進展したことから、一人当たりGDPの伸びは年平均9.2%と、東側陣営の中では極めて高かった(図表-4)。他方、同じくポーランドでは1970年代前半には西側陣営からの対外債務や技術導入で高成長を遂げた時期もあったが、石油危機で対外債務の返済計画に狂いが生じると、ストライキや暴動が頻発するなど政治経済が混乱、一人当たりGDPの伸びは年平均3.5%に留まった(図表-4)。
一方、1970~1990年の西側陣営では、米国が1971年に自国通貨と金との兌換を停止(ニクソン・ショック)し、固定為替相場制から変動為替相場制へと段階的に移行していったため、ブレトン・ウッズ体制はその役割を終えることとなった。その後、西側陣営では、石油危機など米国だけでは対応できない問題を話し合うべく、1975年には第一回目の主要先進国首脳会議(当時はG5、現在のG7)を開催し、その後は"集団指導体制"のようになり、1985年には過度な米ドル高を是正することで合意(プラザ合意)するなど、西側陣営の政策協調の場として機能するようになっていた。しかし、基本的に西側陣営の盟主は米国のままだった。経済政策に関しても、1980年前後に「英国病
5」を克服しようと動き出したサッチャー元英首相や、米国のレーガン元大統領が「新自由主義(Neo Liberalism)
6」の経済政策に舵を切る一方、フランスではミッテラン元大統領が公共投資を増やし国有化を推進するなど一枚岩ではなく、小さな政府で自由を重んじる「新自由主義」と、大きな政府で人権や平等など社会的公正を重んじる「社会自由主義(Social Liberalism)」の間で揺れ動いた面はあるものの、基本的には市場メカニズムを生かすことで一人当たりGDPは右肩上がりで上昇した
7。なお、そのころの成長エンジンは西側陣営内で進展し始めたグローバリゼーションだった。1970年から1990年までの一人当たりGDPの推移を見ると、西側陣営の盟主だった米国が年平均7.9%、西側陣営に属した日本が同13.4%、同じく英国が同11.1%、同じくドイツが同11.1%、同じくフランスが同10.7%だった(図表-4)。特筆すべきは米国の伸びよりも欧州や日本の方が高かった点である。1970年に米国の半分前後に留まっていた欧州の一人当たりGDPは1990年には9割前後まで近づき、1985年のプラザ合意で自国通貨が米ドルに対した大幅に値上がりした日本は米国を超えることとなった(図表-3、5)。