まずは、『明治探偵冒険小説集1黒岩涙香集(ちくま文庫)』における伊藤秀雄さんの解説、『黒岩涙香探偵小説集Ⅰ(論創社論創ミステリ叢書18』における小森健太郎さんの解題、風間賢二著『怪奇幻想ミステリーはお好き?その誕生から日本における受容まで』、Wikipedia『黒岩涙香』
2等を参考に、黒岩涙香の人となりを見ていく。
黒岩涙香(1862年【文久2年】-1920年【大正9年】)は、新聞、『萬朝報(よろずちょうほう)』を創刊した人、われわれの年代には懐かしさを感じさせる小説『巌窟王』を翻訳した人と言えば、分かりやすいだろう。
『萬朝報』では、時の権力者のスキャンダルやゴシップを執拗に追及するスタンスを貫いた。人気連載『弊風一斑蓄妾の実例』では、有名人の愛人関係を、愛人の実名・年齢やその父親の実名・職業まで暴露するという徹底ぶりだったという。このような報道姿勢から、本名の「黒岩周六」をもじって「マムシの周六」と恐れられた。また『萬朝報』が三面にスキャンダラスな社会記事を掲載したことが、「三面記事」という言葉の語源になったという。
このような反骨かつ大衆派のジャーナリスト黒岩涙香はまた、長短百編に及ぶ西洋の小説を独自の翻案というスタイルで翻訳した人でもある。涙香が翻案・執筆する連載小説が人気を博したことがまた新聞の売り上げ増に貢献した。というよりも涙香の小説執筆は新聞の売り上げ増を図るための方便であった。『萬朝報』明治26年5月11日号に涙香は『探偵譚について』と題して、「余はしばしば探偵談を訳したることあり然れども文学のためにせずして新聞紙のためにしたり・・・小説に非ず続き物なり、文学に非ず報道なり」と書いている。
涙香の翻訳・執筆スタイルは翻案。原文に忠実な翻訳と違って、翻案では逐語訳に縛られず、読みやすい文体で日本流の文章が書かれる。涙香は翻案にあたっては、原書を読んで筋を理解したうえで一から文章を創作していた、原書を一度読んだら、あとは二度とページを開かず、記憶にまかせて執筆するのだと言い切っていた、ということだ。
たとえば代表作の『巌窟王』はアレクサンドル・デュマの『モンテ・クリスト伯』を翻案したものであるが、そもそも表題が冤罪により地下牢に幽閉された男が悪者に復讐するという筋書きを端的にイメージさせる『巌窟王』へと変更されている上、主人公エドモン・ダンテスが団友太郎に、悪役ダングラールが段倉にと、登場人物の名前も日本名に変えられている。その一方で、外国の地名がそのまま使われている。文章は歯切れのいい日本語で執筆され、好評を博したという。
もう一つの代表作『嘻(ああ)無情』は、原作であるヴィクトル・ユーゴーの『レ・ミゼラブル(哀れな人びと)』という表題をあまりいじっていないように見えるが、より扇情的で日本人の記憶に長く残ることとなる名表題を生み出している。
なお、以上2作は、筋書きや設定は原作に忠実であるが、涙香の数ある翻案小説の中には、その雰囲気のみをいただいておいて後は翻案者の自由に、結末だって変更するよ、といったものもある。
涙香は青年時代に英語の勉強のために輸入された英語の小説を読み漁ったという。新聞に記事を書くようになってからも常に西洋の新聞小説へのアンテナを張り巡らせていたようで、それらの中から、おもしろいと思ったものを翻案という形で日本に紹介していった。著作権という概念はまだ希薄であった時代、翻案の素になった原作がどれであるのか、誰の作品であるのかが分からないものも多い。